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ハスラー列伝 (BOSS編5)


日本有数の文化都市、広島県福山市

 

中島啓二が死んだのはくそ暑い夏のことだった。
朝まで撞いてそのまま琵琶湖へ泳ぎに行き、湖に飛び込んでそれっきりだったという。
心臓麻痺だった。

 

わたしが「みやこ」に行きはじめた頃に「京阪ビリヤード」は閉店してしまい、それと同時に啓二は消息不明になり、旭区の「GRIPS」で会ったのが5年振りだった。
わたしはしばらく振りの再会を素直に喜んだ。
ある日「GRIPS」に顔を出すと、オーナーの辻本が話があるという。
「あんたには言っとかにゃいかん。啓ちゃんが亡くなりました。」

 

特別な感傷があったわけではない。
実際わたしにとって啓二ほど間尺にあわない存在はなかった。
球屋で会うとケタケタ笑いながら近付いて来て賭け球に誘い込み、金を巻き上げていく。たまにわたしが絶好調のとき「今日こそはやっつけてやろう。」と思って探しても、店を一歩出ると鉄砲玉のようなものでどこへ行ったものやら見当もつかなかった。
第一、5年のあいだ啓二がどこでなにをしていたのかわたしは今でも知らないのだ。
だが、どういうわけか帰りの車の中で涙がにじんで止まらなくなりじつに閉口した。
泣き顔で家にも帰れず、飲みにも行けず、わたしは車の中で寝た。
啓二の人生の最後の6年間は、翔ぼうとして、あがき続けて、そうして遂に翔べなかった傷ついた鳥のようだ。
ひとりの男が人生を賭けるだけの値打ちが球にあるのか。
最後の最後まで啓二に「撞けよ」と命じていたのは何だったのか。
そんなとりとめのないことを考えた。


遠き日の石に刻み
  砂に影おち
崩れ墜つ 天地のまなか
  一輪の花の幻
     (原 民喜)

 

「10年前の自分と対戦して勝てるか?」
生前中の啓二にわたしは聞いたことがある。
「以前の自分は、入れてなんぼだと思っていた。実際入った。でも、球の怖さというか・・・そういうことを何にも知らなかった。球の怖さを知ったとたんに入らなくなったが、でも、10年前の自分と対戦して負ける気はない。」

 

沢木耕太郎氏は著書「一瞬の夏」で元東洋ミドル級王者カシアス内藤を描いたが、不完全燃焼をつづけるカシアス内藤の姿と啓二とが、わたしにはいつも重なる。

弁解するように内藤はいった。
《たった500ドルのファイトマネーで、ブンブンぶっ飛ぶわけにはいかなかったんだよ。命がかかってんだからね。》
その時、はじめてぼくは深い徒労感に襲われた。
《いつブンブンぶっ飛ぶの?》
《いつか、そういう試合ができるとき、いつか・・・》
以前、ぼくはこんな風にいったことがある。人間には「燃えつきる」人間とそうでない人間の二つのタイプがある、と。
しかし、もっと正確にいわなくてはならぬ。
人間は、燃えつきる人間と、そうでない人間と、いつか燃えつきたいと望みつづける人間の、三つのタイプがあるのだ、と。
望みつづけ、望みつづけ、しかし「いつか」はやってこない。内藤にも、あいつにも、あいつにも、そしてこの俺にも・・・

 

 

プロ入り後の小杉を書くには、フィリピンのビリヤードに触れねばならない。
というのも、後年小杉の人生はフィリピン選手との関わりのなかで大転回することになるからだ。

 

20数年前に、日本のプロ選手団が親善試合のためにフィリピンを訪問したことがある。
当時は「へぇ、フィリピンにもビリヤードがあるのか。」程度の認識だった。
そして日本チームはほとんど総崩れにちかい歴史的大敗北を喫した。
わたしの記憶にまちがいがなければ4勝36敗だったと思う。
それでも「クーラーもない蒸し風呂のなかでビリヤードはできない。最悪のコンディション。」ということで、フィリピンビリヤードの評価はそれほど高くはなかった。
日本でやれば負けないだろう、くらいに考えていたのだ。
数年後のプロ選手権(大阪・セルシー)で、日本のプロ協会がアメリカの招待選手には交通費を全額支給するがフィリピンの選手に対しては片道分しか出さない、などとやっていたのがいい証拠だ。

だがフィリピン勢は圧倒的に強かった。
それどころか、それまで「悪い」とされていた奇妙なストロークと普通では考えられないライン取りで、日本ビリヤードの常識までをも転覆させかねない勢いだった。
プロ選手として、小杉がフィリピンビリヤードに魅了されたのはむしろ当然だったのかもしれない。

 

残念ながら、プロ入り後の小杉の成績についてはほとんど書けない。
本もないし、インターネットで調べても
1987年「全日本選手権」準優勝(決勝は対アレン・ホプキンス)
1991年「全日本選手権」優勝(決勝は対エフレン・レイズ)
これくらいしかわからない。

 

この時分、わたしの郷里の先輩の吉永氏がレストラン兼ビリヤードというような店をオープンした。
「五番街」という。
そこでエキシビジョンをやりたいというので、わたしは小杉と一緒に行った。
そのころの広島県福山市にはビリヤード店は2軒しかなくレベル云々を語るほどのものではなかったのだが、その後小杉の案内でエフレン・レイズをはじめルアット、エスキリオ、アカバ等の若手選手も多く来店したうえに、そのうちの数名は「五番街」に住みついたので福山市のビリヤード熱は沸騰し1年ほどで球屋も約10軒に急増した。
小杉の夢はすでに世界に向けられていた。
アメリカツアーに参戦したい、というかれの願いを吉永氏はすべて聞き入れ、エフレン・レイズと小杉のふたりはアメリカに旅立った。

 


この頃わたしはすさまじい光景を目撃している。
「五番街」に居候するフィリピンの若手選手たちのことだ。
かれらは睡眠と食事以外のすべての時間をビリヤードに費やしたという。一日も欠かさず、毎日約15時間かれらは練習に明け暮れた。
ルアットなどはあの痩せっぽちの身体のどこにそれだけの体力があるのか不思議だったが、かれらの練習が佳境に入ってくるとオーナーの吉永氏でさえもこわくて声をかけられなかったという。
常連客や吉永氏がたまには息抜きをさせようと遊びに誘ったりしたが、かれらは一切受け付けなかった。
「こういう連中がいずれ世界の舞台に立つのだろう。」
わたしは漠然とそんなことを考えながら練習風景に見入った。
生半可な気持ちでプロを目指す者がいたとすれば、この練習をみただけで「まわれ右」して帰ったことだろう。
後にかれらの中の数名は世界ランカーへと成長していったが、当然といえばあまりにも当然な結果といえる。

 

         

 

(つづく)



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