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ハスラー列伝 (徳江衛編4)

 

 

ある日のこと、徳さんは師匠の村上次郎プロに呼ばれた。
「お前もそろそろ独立してみるか。」
内弟子生活の終わり。プロ入りから4年半後のことである。

 

知人のすすめで、徳さんは銀座のビリヤード店で働くことになった。
自由が丘時代2万5千円だった給料が、銀座では倍の5万円。場所は場所とて「花の銀座」。
徳さんはすっかりスター選手になったような気分がして、蝶ネクタイをくいっと締めなおした。
だが、かれの苦労はここから始まる。
自由が丘ではひたすら撞いていればよかったが、銀座ではそうはいかない。

客が来店するといそがしい。
「いらっしゃいませ。」
まずは乾いたタオルでキューを拭いて客に差し出す。
「上着をお預かりします。」
上着を壁に掛ける。
そして最後に客のうしろにまわって前掛けを着ける。
ここまでがセット料金に含まれているのだ。

そもそもべらんめえ調の徳さんには、銀座はまったく似合っていなかった。
「前掛けをお着けします。」 などは背中を毛虫が這っているくらい気持ちがわるい。
ゴリラ並みの体力を誇る徳さんも神経までは思うに任せず、胸一杯のストレスをかかえて半年後ついにリタイア。
あたまには立派な10円ハゲができていた。

 

その後、徳さんは五反田、中野、板橋などの玉屋を中心に専属選手兼マネージャーとして走りまわった。掛け持ちの店の総台数は100台を越えたという。
店に客を入れることもマネージャーの仕事である。
駅前でビラ配りもやった。
プロ選手としてのプライドが高い徳さんはシラフでビラを配ることができず、その手にはビラといっしょにワンカップがしっかり握られていた。

 

プレイヤーとしての徳さんの全盛期は38〜40才頃である。
昭和50年前後には、年10〜11回おこなわれる研究会で彼の優勝は8回を数え、年間アベレージは1.
38に及んだ。驚嘆すべき数字といっていい。



 


徳さんが現役を引退したのは48才の時である。
23才でプロ入りしてから25年が経っていた。
このころ、目標でありライバルでもあった内山勇、相馬幸男が相次いで引退を表明し
スリークッションの世界にも世代交代の波が押し寄せていた。
内山勇とは徳さん60連敗の後70連勝するなど壮絶な戦いを繰広げてきたのだった。

 

「どんなに調子が悪くても5本の指には入れると思っていたし自信もあった。でもこの頃になってどうにもその自信が揺らいできた。オレもこの辺が潮時かなって思ったね。」

 

引退前後について徳さんは多くを話したがらないが、たまたまわたしの友人が彼の現役最終戦を観戦している。
結果は準優勝だった。
「ナイスゲーム。」
「惜しかったですね。」
ファンが声を掛ける。
その日、徳さんは終始無口だったという。
そして突然、かれは誰に言うともなく叫んだ。

「オレはねえ。準優勝が欲しくてプロになったわけじゃないよ。」

徳さんはキューを置いた。

 

 

 

平成3年にはじまった「全日本プロシニアスリークッション選手権」で、徳さんは第1回〜3回まで3期連続優勝を果たしている。
最近では年齢的にハードショットなどは見かけなくなったが、なんといっても「身体で覚えたビリヤード」。肉体派の彼の玉は正確だ。
「ビリヤード山手」にはピン倒し愛好者が多く、徳さんと同ハンデの選手が3名いて一応わたしもその中の一人であるが、正直なところ彼にはちょっと勝てる気がしない。
好不調の波がほとんどないからだ。

 

以前5人でピン倒しをしたことがある。
恐るべきはその玉歴だ。
55年2名。40年1名。30年2名。
合計すると、なんと210年!!
この5名がそれぞれあと10年続ければ計260年になる。
260年。
これは江戸時代と同じである。
せいぜい養生して、大記録に挑戦したいと思っている。

 

 

                  

 

(おわり)

 

 

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