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ハスラー列伝 (花谷勝編4)

 

花谷さんのビリヤードに対する姿勢はじつに厳しかった。
OPBC(大阪14−1研究会)での彼の口癖は「日頃の練習成果を試すのが研究会である。練習もせずに来たヤツは帰れ。」というもので遅刻などはもってのほか、無断で休んだりすると一発でクビである。また無気力な球を撞く者がいると容赦なくカミナリを落とした。
花谷さんにしてみれば当然だったであろう。
プロ入り後2年連続ビリの屈辱を味わった彼は、ひたすら練習することでトッププロにまでのぼりつめた「叩き上げ」である。だらだらと練習しても決して上達しないこと、少しでもおろそかな球を撞いたらすぐにひっくり返されてしまうこと、一球のおそろしさを痛いほど知る彼はなんとしてもその事を後進に伝えようとしたのだ。
プロ又はプロを目指す者だけが集まる研究会は当然のことながらおそるべきメンバーで構成されていたが、その厳しさに若手選手は震えあがった。
当時の研究会は1部と2部に分かれていて2部の選手は1部に昇格しようとがんばっていたが、昇格すれば花谷さんがいる。それに恐れをなして、中にはわざと2部でチンタラ撞いている者もいたほどだ。
花谷さんは「鬼の花谷」と呼ばれ研究会の厳しさの象徴であったが、この時期OPBCのレベルは飛躍的に向上した。

 

当時、ビリヤード界では「50才限界説」が公然と囁かれていた。現実にそれまで50才を過ぎてからタイトルを獲得した選手はいなかったし、45才あたりから急激に衰えが目立つ選手が多かった。
それは今わたしにはよくわかる。老眼など目の影響も大きい上に、普段の練習においても気力が続かないのだ。
だが1990年、花谷さんは全日本選手権で総合優勝を果たすことで限界説を一蹴してみせる。
52才だった。
全盛期とくらべて体力や視力
は及ぶべくもないが、まだまだ気力は充溢していた。
「粘れなくなった。」
そのことを理由に引退したのは後年のことである。


 


1985年ころ、花谷さんは大阪から福島県に移り住んでいる。
「暑いのが嫌いなんでね。福島は涼しくていいですよ。」
呑気な話であるが、実際には郡山の知人がビリヤード店をオープンするにあたって彼を招聘したのがきっかけのようだ。
だがそこでも彼はじっとしていなかった。引っ越しから今日まで約25年の間に、それまでレベルが低いといわれた東北から名選手をキラ星のごとく輩出したのだ。
その後「花谷杯」が創設される。
これは「東北ビリヤードの基礎を築いた花谷さんの名前がないのはおかしい。」とアマチュアが発起し創設したもので、年1回の大会には東北各県から100人以上の選手が集まり公式戦になっているそうだ。
自分の名前の試合が開催されることは、プロプレイヤーとしてこれほどうれしいことはなかったであろう。

 

2009年夏、わたしは取材のため白河の「キュースター」に花谷さんを訪ねた。
「14−1の50点ゲームを2回お願いします。」と申し出ると、彼は快く引き受けてくれた。
だが、約束の2ゲームが終わっても許してくれない。「もう1回やろう。」「もう1回やろう。」が続き、結局気がつけば6ゲーム対戦していた。
70才の現在も、藤間さんのところに通いつづけた修行時代も、その姿勢は少しも変わることはない。しかも撞き切りを2回食らった。70才のS50にはびっくりだ。
「どうも最近は挑んでくる若手がいなくてさびしいね。B級C級でもいいんです。若いうちにどんどん負けるのは大事なことなんだけどね。」
40年以上も昔に、今日こそ勝つぞと藤間詣での電車にとび乗る花谷青年の姿を垣間みた気がした。
後になって聞いたところによると、花谷さんのお嬢さんもビリヤードをされるらしく、しかもなかなかの腕前だそうだ。
彼女に対戦を申し込まなかったことは、少々心残りだ。

 

 

(おわり)




 
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