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ハスラー列伝 (徳江衛編3)

 


    前列右から2人目が村上次郎氏。 前列中央が長老肥土軍作氏。
    前列の女性が桂典子氏。
    左から2人目3人目が「大阪四天王」五十嵐
雍治
氏、久保敬三氏。
    中列中央付近に徳さん。白スーツの相馬幸男氏の姿もみえる。

 

 

徳さんは「自由が丘ビリヤード」の村上次郎プロに弟子入りし、プロ選手になった。
23才のときである。
当時はプロ選手に弟子入りしなければプロになれなかった。現在でいえば、将棋の世界の内弟子制度に似ている。
スリークッション20点、四つ球300点が弟子入りの目安だったそうだ。
徳さんは胸をおどらせた。

 

弟子入りの翌年、徳さんは全日本関東予選で3位入賞を果たしている。
そのころは「関東選手権」か「全日本関東予選」のどちらかで5位入賞すれば金バッジを贈られた。
プロプレイヤーとして名誉なことで、徳さんは3位入賞したのだから当然金バッジを戴ける資格はあるのだが、
「徳江はまだまだはやい。」
とクレームを言い立てる者がいて、怒った徳さんは金バッジを拒否してしまった。

 

翌年が大ブレイクの年になった。
この年、関東と関西の5人チームでのリーグ対抗戦がおこなわれ、徳さんは関東チームの一員に選ばれた。

『関東チーム』
内山勇、相馬幸男、厨川(くりやがわ)孝、桂一成(かずしげ)、徳江衛

『関西チーム』
宮口清、小林伸明、小森純一、船木和保、もうひとりは失念

当時は、名手小方浩也(おがたこうや)を筆頭に久保敬三、五十嵐雍治、宮口清のいわゆる「大阪四天王」を擁する関西が圧倒的に強かった。
だが徳さんはこの対抗戦で5戦全勝する。
さらに10人リーグの関東選手権で全勝優勝を飾り、公式戦23連勝の大記録を打ち立てたのである。

 

もはや反対する者などいるはずもない。
徳さんは堂々と金バッジプレイヤーの仲間入りをはたした。

 


対抗戦で全勝したご褒美に、大阪のビリヤードファンが御堂筋沿いの料理屋「卯月」に招待してくれたそうだ。
そこでご馳走になった「うどんすき」がなんとも美味く、徳さんはその味をいまでも忘れられないという。

 

 

 

 

 

スリークッションで使用する玉についてすこしだけ触れておきたい。
昭和35年頃からプラスチック製の玉が出始め、その後アラミス社の研究により昭和40年頃になってようやく現在と同程度の玉が完成したが、それ以前は象牙の玉を使用していた。
象牙の玉はひじょうにむずかしい。
反発力がつよい上に中心が狂っている玉が多いので、弱い撞き出しだと止まる直前に玉がクニッと曲ったりする。
この「中心が狂っている」というのが大問題で、雨の日などはさらにひどいことになる。
象牙は水分を吸収するからだ。それでも均等に吸収してくれればいいが、吸収の仕方にムラがあるので始末がわるい。
しかも転がりがわるかった。
台にも原因があるのだが、二重まわしなどはフルショットをしなければなかなか届かなかった。
「神様」クールマンスですらも、象牙玉で1アベレージは至難だったといわれる。
クールマンス(ベルギー)についてはここで説明するまでもないが、ベルギーチャンピオン61回、ヨーロッパチャンピオン45回、ワールドカップ9回、世界選手権20回を制した伝説の世界チャンピオンである。
このクールマンスが1963年に初優勝する以前は、歴代世界選手権優勝者のなかに1アベレージ以上の成績を残した選手はたったの1人しかいない。
先にわたしは「スリークッション20点、四つ球300点が弟子入りの目安」と書いたが、玉はもちろん象牙玉である。

 

このころ、徳さんはベルギーへの武者修行を夢みていた。
スリークッションの本場はヨーロッパ、そのなかでもとりわけベルギーである。
徳さんがジョン万次郎に憧れていたのかどうかは知らないが、しかしそれは時代背景が許さず夢で終わってしまう。
現在でもかれは、ベルギーの話になると少年のように目を輝かせる。
「ベルギー」と「武者修行」の二語は、徳さんの裡に青雲の志を甦らせるパスワードなのだ。

 

                 

 

 (つづく)

 

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