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アスリート列伝 (杉山直樹編3)

 

杉山は3歳の時、右肩関節を脱臼した。
父正明が「高い。高い。」と両手を持ち上げた瞬間に「ぽこっ」と音がして肩関節がはずれてしまったのだ

「うまれつき肩関節のかみ合わせが浅いために脱臼しやすいのです。防ぐためには関節の周りの筋肉を鍛えてそれで保護するしかありません。」
あわてて駆けこんだ病院での医師の説明だった。
正明は頭をかかえこんだ。
「肩の筋肉を鍛えなさい」と言われてもまさか3歳児に筋トレをやらせるわけにもいかないではないか。
結局軟球大のゴムボールを買ってきてそれで遊ばせることにした。ボールを投げているうちに、いくらかでも肩の筋肉が鍛えられるにちがいない。正明と母時子が交代で相手をしたのだが、皮肉にもこれが杉山と野球との出会いになった。
かれはこれが気に入ったらしく、どこへ行くにもこのボールを手放さなかった。
毎日ゴムボールで遊んでいるうちに、けっこう速い球でも受けることができるようになったという。
文字どおり「ケガの功名」といっていい。


 


小学1,2年では陸上部に所属している。姉ゆかに連れられて早朝練習にも参加した。
3年から5年の中ごろまではサッカー少年団に所属しキャプテンをつとめた。町内のサッカー経験者に指導を受けたという。足は速かったようで、サッカーでは沼津選抜チームのメンバーに選ばれたりしている。
さらに5年の途中から卒業するまではバレーボール。これなどはバレーボール部が5名しかいないため試合のたびにかり出されたのだが、練習もしていないわりにけっこう活躍できたので楽しくなってそのまま入部したのだ。その後、時子といっしょにママさんバレーに通ったりしている。
こうしてみると、スポーツをとりまく環境には恵まれていたといえそうだ。
少年期にいろんな種目を経験することはアスリートの将来に有効だ、との説があるが、杉山を例にあげるとこの説は有力かもしれない。

 

当時変わったことといえば、食事の量が増えたことだ。サッカーを始めたころから腹が減って仕方なくなったらしい。どんどん食べつづけた結果、みるみるうちに太ってしまった。小学校卒業当時の体格は160センチ75キロだった。
肥満体である。
陸上、サッカー、バレーボールと順次経験しながらも、小学、中学を通じて、杉山の夢は競輪の選手になることだった。「将来の夢」の作文にもかれはまよわず「競輪の選手」と書いている。
夏休みになると、早朝友達とふたりで「香貫(かぬき)山」までサイクリングに出かけるのが日課になった。
沼津市の南東に位置する香貫山の麓までは片道30分くらいかかる。麓から標高193メートルの山頂までやはり30分くらいかかるだろうか。二人の楽しみは山頂まで上ったあと、そこから麓までを猛スピードで下ることにあった。
それだけのために二人はほぼ毎日香貫山まで通ったという。
「元気なデブでした。」(本人談)

 

 


地元の大岡中学校に入学して野球部に入部した。軟式野球である。
小学時代、野球といえば休憩時間にゴムボールで遊ぶ程度だったのがどういうわけで野球部を選んだのか杉山はおぼえていない。
「たぶん、野球部がいちばんかっこよく見えたからだと思います。」
野球に対して特別な思い入れもなかった。
中学の三年間を通じて苦しい練習に耐えた、という記憶もないという。
ただ、猛烈に食べた。
学校の裏門あたりにスーパーがあったが、かれはその店の上得意だった。
2時限目の休憩時間にパン2個、コロッケ2個、カツサンド1個。昼は弁当だが、かれの弁当は同級生の3倍くらいの大きさで「バケツ弁当」と呼ばれた。授業が終わって部活が始まる前にパン2個、おにぎり2個。練習が終わって帰宅すると6時半ごろから夕食だが、あまりの食いっぷりにあきれた父正明から「あまり食べるとバカになる。」と途中でストップがかかるほどだった。
まだある。夕食のあとはキャベツの千切りに醤油をかけてボリボリ食べた。母時子が刻んでくれるのだがこれが一日一玉。夜食は姉ゆかがつくってくれるチャーハン。言い忘れたが、朝食はもちろん腹一杯食べた。
この当時、映画「ゴーストバスターズ」に登場する丸々と太ったキャラクターにちなんで「マシュマロマン」のニックネームを頂戴している。
余談になるが、上野動物園のゴリラ「ピーコちゃん」はバナナ、リンゴ等を中心に一日12キロくらい食べるそうだ。

 

中学時代の練習は平日の部活のほか、毎週日曜日には父兄が中心になって「野球教室」が開催された。こうしてみると、沼津はスポーツの盛んな土地柄なのかもしれない。
このころになって、杉山はしだいに頭角をあらわしている。
捕手不足に悩んだチームが新入部員をあつめて「捕手テスト」をしたことがある。実戦同様に一塁走者を走らせて二塁に送球する、というものだ。
チーム一番の俊足森川が走者役を買って出たのだが誰一人としてアウトにできない。だが杉山はちがった。かれの送球は森川がスライディングの体勢にはいる前に二塁にとどいていたのだ。
「捕手杉山」が決まった。
しかし、依然として野球にのめり込むほどではなかった
部活と野球教室以外での練習といえば、市内のバッティングセンターに時々行ったくらいのものだ。だがこれにしてもバッティング練習というよりも、ここに来ればだれか友達がいるのでむしろそちらのほうが主目的だったようだ。
かれは相変わらず自転車を乗りまわし、暇さえあればキャベツをかじっていた。

 

意外なことがおこった。
杉山が3年の夏、中体連(中学校体育連盟)主催の野球大会で大岡中学野球部は沼津市の予選で優勝し、静岡東部大会に進出したのである。さらに東部大会でもあわや優勝というところまで勝ち進んだのだ。
この頃になってようやく「大岡中の杉山」は注目されはじめた。
さらにこの時期、かれは現在にまで語り継がれるエピソードを残している。
大岡中のグラウンドは左翼後方70メートルあたりにテニスコート、左中間のすこし奥、距離にすると90メートルくらいのところに体育館がある。中学生の場合テニスコートまでノーバウンドで打てればまずは強打者といっていいだろう。それを杉山は体育館の、しかも屋根にぶち当てたのだ。かれが大岡中学校を卒業して20年以上経つが、屋根どころか体育館に当てた者もほとんどいないという。
これに瞠目したのが沼津学園野球部の川口監督だったのである。
エピソードの続編を書いておこう。
沼津学園の野球グラウンドは周囲をネットで囲んでいるが、左翼ポール周辺だけネットが一際高くなっている。これは杉山が高校時代、あまりにも場外に打ち込むのでそれを防ぐために増設したもので「杉山ネット」と呼ばれている。

    

(つづく)

 

 

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