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アスリート列伝 (杉山直樹編1)


      杉山直樹(すぎやま なおき) 1969.9.3生  
      (捕手)(右投右打)
       静岡県沼津市出身
       沼津市立大岡中〜沼津学園高
       1987巨人ドラフト6位
       88〜00巨人
       272試合523打数110安打 打率.210
       12HR 153打点


沼津学園高等学校(現飛龍高校)野球部は猛練習で知られる。
監督は元明治大学野球部で三塁手としてならした川口啓太(現明治大学野球部監督)である。
川口は大学時代、故島岡監督の「伝説の猛ノック」のなかから這いあがって東京六大学のベストナインに選ばれている。短髪、色黒、いかつい風貌そのままの音にきこえた「鬼監督」である。
杉山が沼津学園を選んだ理由は簡単だ。
当時「大岡中学の杉山」といえば地元ではすこしは知られた選手だった。それに目をつけた川口が毎晩毎晩杉山宅に押しかけたのだ。
「高校で野球を続けるつもりはまったくありませんでした。中学で3年間野球部にいましたが、その間テレビのプロ野球中継も見たおぼえがありません。」
かれの夢は競輪選手になることで、野球はそのためのステップにすぎなかったのだ。
だが、川口の日参に杉山家はほとほとまいってしまった。
「よろしくお願いします、と言うしかありませんでした。」
昭和60年4月、杉山は沼津学園に入学すると同時に野球部に入部した。
地獄の日々が始まった。

 


 

 

沼津学園野球部の練習は辛辣をきわめた。
校舎から山手方向に約4キロ行くと野球部専用のグラウンドがある。両翼91メートル、夜間練習用の照明設備も完備された堂々たる施設だ。
新入部員140名は初めてこのグラウンドを見たとき、恵まれた環境に胸をおどらせたにちがいない。
だがかれらにとってこのグラウンドはまるで用をなさなかった。

 

平日の練習時間は夕方4時から夜9時までの5時間だが、選手たちは授業が終わりしだい学年別に送迎用バスでグラウンドに送り込まれる。乗り遅れた者は走って行くしかないのだが140人乗りのバスなどあるはずもなく、要するに新入部員などは最初から送迎するつもりがないのだ。
だらだらとつづく坂道を走っていくしかない。
やっと到着して挨拶をすませるとすぐにグラウンドから放り出される。そこからさらに山手方向に4キロほど行くと「水神(すいじん)さん」とよばれるお宮があるのだが、そこまで走るのだ。
この坂道は勾配が一層きつい。
タイムでも計ればすこしは走る楽しみもありそうなものだが、それもなくただ走るのみ。
ギリシャ神話に登場するシジフォスの「岩運びの刑」に似ている。
そのあと川口式筋トレ体操をすませると這うようにして三翼側の丘にのぼりそこで「声出し」が始まる。
グラウンドに向かって大声で自己紹介するのだ。
一日の練習の締めには「1分ダッシュ」が待っている。
ホームベースからセンター後方までの100メートルを、行きは16秒帰りは44秒で走るのだ。
これが連続20本。
最後にグラウンドを20周走ってやっと一日が終わる。
正確に書かねばなるまい。じつは20周で終わる保証はない。1周80秒以内という条件がついており、一人でもタイムオーバーすると1周増えるのだ。

 

一日の練習でどれだけ走るのか計算してみた。
学校からグラウンドまでが4キロ。
グラウンドから「水神さん」までの往復が8キロ。
「1分ダッシュ」が200メートルを20本で4キロ。
最後のランニングが、グラウンド1周250メートルとして20周で5キロ。
合計21キロ。
ただしこれは平日5時間分の練習量なので、土、日は当然のことながらさらにすさまじい数字になると思われる。
「ベースランニングは陸上部よりも速い。」といわれた沼津学園野球部の原動力はここにあるのだ。

 

とにかく球にさわれない。
少年野球を見るとわかりやすいのだが、ウォーミングアップが終わってキャッチボールが始まると子供たちの表情がぱっと変わる。ボールを握った瞬間にいわゆる「野球モード」に入るのだ。プロ野球の選手も少年野球の子供たちもこの点は同じだ。
新入部員たちは「野球モード」に入ることすらできないまま、ただひたすらに走りつづけた。
のちに杉山が読売巨人軍に入団し初練習に参加したころを回想して、
「生意気に思われるかもしれませんが、なんだ、プロの練習はこんなに楽なのか、と拍子抜けしたのをおぼえています。本当にそう思ったのです。」と語ったのも、沼津学園野球部の練習がいかに過酷であったかを知る一証左になるだろう。
140名の新入部員は一週間後には70名に減った。その後も落伍者があとを絶たず1年終了時で残り25名、さらに卒業まで残った者はわずかに14名だった。
おそるべき生存競争といっていい。
入部時に85キロあった杉山の体重も、数ヵ月後の夏の県大会が終わったころには69キロまで激減していた。


写真の日付けが1/3になっている。正月でも休まなかった。

 

この当時のエピソードがある。
父正明は仕事が終わるとパチンコ店に直行するのが日課だったのだが、それをピタリとやめている。疲れはてて帰ってくる息子に対して申し訳ないと思ったのだろう。
正明は野球にうちこむ息子に力添えできないものかと考えあぐねたすえに、自宅の庭にティーバッティング用のネットを造ることにした。
まず鉄パイプを溶接して枠を造り、ネットは港に出かけて行って漁師から使い古しの網を譲ってもらった。
このネットを使ったティーバッティングは、杉山が沼津学園を卒業するまで一日も欠かさずつづいた。野球部の練習が終わって夜10時に帰宅するとすぐに始めて約1時間300球打ち込むのだ。
あきれはてたスタミナである。
杉山は父親のネットがよほどうれしかったにちがいない。後年、わたしと知り合ったとき最初に話してくれたのもこのネットのことだった。

    

(つづく)

 

 

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