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アスリート列伝鈴木望編4

わたしにとっての「鈴木望物語」はここから始まる。
その前に、特筆すべきかれの能力について触れておきたい。
無論「天才の定義」などはキリがないので単純に身体能力だけに限っていえば、かれの場合両足の内転筋群がケタ違いに発達していた。ひざの筋力は巨人軍のなかでも指折りだったという。
しかし、かれにとって生命線ともいうべき「ひざ」を半月板損傷が襲ったのである。

 

6年目のシーズン途中に、望は右ひざに違和感をおぼえた。
突然のことだった。
初めのうちは「違和感」程度だったのだが、日に日に痛みがひどくなってくる。
「これは普通じゃない。」
それまでに経験したことのない種類の痛みだったのだ。
かれは、学生時代から世話になっていた整体の先生を訪ねることにした。驚いたのは先生だった。
「こりゃ無理だ。野球なんかできるはずがない。当分安静にしておけ。」
だが練習を休むわけにはいかなかった。
かれにとっては当然だっただろう。5年前期待されて入団しながら、ずっと二軍生活に甘んじてきた。ようやく巡ってきたチャンスを前にして、痛いの痒いのと騒いでいる場合ではあるまい。
かれは右ひざをテーピングでグルグル巻きにして練習をつづけたのである。
「痛そうなそぶりどころか、痛そうな顔もできませんでした。故障がバレると使ってもらえませんから。」
だが、どうにもならない。曲げても痛い。伸ばしても痛い。
そのうちに眠れなくなった。
「痛みをこらえて根性で寝る」そんなことはできるものではない。
酒しかなかった。
飲んで、酔った勢いで寝てしまう。そうする以外に方法がなかったのである。
痛む足を引きずりながら、向ヶ丘遊園界隈の行きつけのスナックに通う夜がつづいた。
「足が動けば、足さえいうことを聞いてくれれば。」
念仏のように唱えながら、望は試合出場をかさねていった。
この年、二軍で70試合に出場して169打数45安打、打率2割6分6厘。  

 

シーズン終了後、さすがに病院を訪ねた。
望の右ひざを診て驚いた医師は、当然のことながら手術をすすめた。
かれの右ひざは「ボロボロ」というよりも、「皿」と何本かの「スジ」を残して「からっぽ」の状態だったのだ。
しかし、かれは医師のすすめを断っている。
「なぜ手術を受けなかったのか、ということは今でも聞かれます。手術を受けてリハビリを続ければ日常生活に差し支えない程度にまで回復する、そのように聞いていました。でも、そんなんじゃあ駄目なんです。手術イコール引退だと思っていました。」
しかも、さらに追い討ちがかかった。
球団から自由契約を言い渡されたのである。
6年に及ぶ二軍での成績に、他球団にアピールするほどの特筆すべき数字は見当たらない。その上に右ひざの故障。もともと性格的にもハングリー精神にとぼしい。そしてついには「クビ」に等しい自由契約。
鈴木望の野球人生もついに終わった、と思われた。いや、そう考える方がむしろ自然だったといえる。

 

 

 

だが、終わらなかった。
どん底の状態まで沈みきったそのときから、かれは別人と呼んでいいほどの奇跡的な執念を見せ始めたのである。
「プロテスト」
もう一度プロの世界にもどるには、テスト生として入団試験を受け合格するしかない。口で言うのは簡単だがなかなかできることではあるまい。
第一、プライドが許さない。
ドラフトで入団したかれがプロテストを受けることは、大学を卒業した人がもう一度高校の入試を受けるようなものだ。想像しただけでうんざりする。
しかも、鈴木望。
「天才」と呼ばれ、小学1年からここまで22年間の野球人生のなかで「挫折」ということにほとんど縁がなかった。ろくに練習もせずに小学でソフトボールを65メートル投げ、中学では100メートルを11秒6で走った男。
「挫折」どころか「エリート街道」まっしぐらだったのだ。
一般的には「逆境」に対してもっとも弱いタイプといえるだろう。
そのかれが、プライドをかなぐり捨てて日本ハムファイターズのテストを受けたのである。
やる気があるのかないのかわからないように見えたこの男のどこにこれほどの情熱が隠されていたのだろうか。
ただ間違いなく言えることは、かれにとって「野球のない生活」など想像することすらできなかったということだ。

 

「鴨川に行ってみるか。」
テスト後、上田監督から声がかかった。
千葉県鴨川市は日本ハムの秋期キャンプが行われる場所だ。そこに行くということは合格を意味する。
望が生き返った瞬間だった。
しかしその右ひざは相変わらずテーピングで覆われていた。かれを「不死鳥」と呼ぶなら、正しくは「片翼もがれた不死鳥」と呼ぶべきだっただろう。

 

新天地に移籍したものの、思い通りの活躍はできなかった。
望自身が考えていたよりもはるかにかれの右ひざの状態は深刻だったのだ。
結局、一軍で10試合に出場しただけで、あとは巨人軍時代とおなじ二軍生活がつづいた。その後3年間在籍して1998年のシーズン終了後に戦力外通告を受け、引退。
移籍1年目の1996年6月11日、仙台宮城球場での対ロッテ戦でヒルマン投手から放ったホームランこそが、鈴木望が執念で打ち上げたただ一発の花火だった。

 

現在かれは由起子夫人と3人の子供たちに囲まれて平穏な生活をおくっている。
休日でも声がかかればどこにでもコーチに出かけて行く。心底、野球が好きなのだ。
野球少年になにか一言。
「今やるべきことを今やる、それがすべてです。守備練習をしなくてもゴロをさばけるとか、素振りをしなくてもホームランを打てるとか、そんなのはちょっと上に行くとまるで通用しません。毎日何本素振りをしたか、どれだけ走ったか、その積み重ねこそが大事だと思います。」 
話はそれるが、日本スポーツトレーナー協会の酒豪といえば、宮下昌巳と望が双璧だろう。
協会の事務局にはビールを準備しているのだが、この二人は事務局に座り込んだあげく、20リットル入のビール缶を2缶カラッポにしたことがある。ふたりが飲む姿をみていると、わたしは「カバの水浴び」を連想してしまう。
「いやー、これはですね。足を痛めたころに毎晩のように飲んでいたら、すっかり大酒飲みになってしまいました。なんでも日々の積み重ねですね。」
寡黙なかれが、はじけるように笑った。


(おわり)

 

 

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