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アスリート列伝 (鈴木望編1)


     鈴木望(すずき のぞむ)1967.5.2生  
     (内野手)(右投右打) 
     東京都世田谷区出身
     世田谷区立緑丘中〜星稜高〜駒澤大
       1989巨人ドラフト5位
       90〜96巨人
       97〜99日本ハム

 

 

駒澤大学野球部の元監督太田誠をして、
「天才というのは望のことです。」
と言わしめたのが鈴木望である。
現在、日本スポーツトレーナー協会には数十名のプロ野球退団者が在籍しているが、「才能というなら鈴木望こそが随一でしょう。」とだれもが口をそろえる。

 

現役時代の179センチ78キロはプロ野球選手のなかでは普通だろう。
普段はいつもにこにこ笑みを浮かべている。強いていえば少し色黒の顔がスポーツマンらしい、と言えなくもないが、わたしに限らず初めてかれに出会った人は、この人がかつてプロ野球選手だったことを告げられてもにわかには信じられないだろう。
とんでもない話だ。
かれは、石川星稜高校から駒澤大学、そして読売巨人軍にいたるまでの「野球選手の花道」を何ら渋滞することなく走りぬけたトップアスリートなのである。
星稜高では甲子園出場2回、駒澤時代には東都六大学リーグで5割7分6厘という驚異的な高打率をたたき出して首位打者に輝いている。

 

5割7分6厘。
これは尋常な数字ではない。
ちなみにこの時の打率2位は3割9分5厘。まさにダントツといえる。
印刷ミスではないのかと思われるほどのこの成績は、かれが大学を卒業してから20年ちかくを経た現在も、東都六大学リーグのレコード記録として残っている。
ところが、である。
これほどの選手が、読売巨人軍に在籍した6年間に、ついに一度も一軍の打席に立てなかった。
いったい何が起こったのか。
わたしは「天才」と呼ばれた男の栄光と挫折について書きたいと思う。

 

望の両親は、そろってオリンピック選手である。
父章介は、浜松商から早稲田大、実業団の大昭和製紙にいたるまで一貫して陸上競技をつづけ、東京オリンピックでは十種競技の日本代表に選ばれている。
当時の日本記録保持者だった。
翌年にはトレーニングコーチとして読売巨人軍に招かれ、以後約10年間その重責を全うしている。
昭和40年代の巨人軍黄金の9連覇時代である。
一方母文子(旧姓伊藤)は、竜ヶ崎一高から実業団のリッカーに進み、走り幅跳びでローマオリンピックに出場した。章介同様、やはり日本記録保持者だった。
ちょっと類を見ない「毛並みの良さ」といえよう。
一才上の兄洋(ひろし)は高校卒業後プロ競輪選手としてデビューし、その後7、8年活躍している。妹の多美子はプロゴルファーを目指した。これは中途で断念したものの、まさに「天才一家」と呼ぶにふさわしい。

 

 

 


望は小学1年でリトルリーグの「目黒東クリッパーズ」に入団している。
「ボーイスカウトか野球のどちらかやりなさい。」と母にいわれたのだが、その時すでに兄がボーイスカウトだったので「兄貴と同じことをやっても仕方がない。」と考えて野球を選んだのだ。動機は単純だったが、結局中学を卒業するまでこのチームで野球をつづけている。
リトルリーグの練習は毎週日曜日、朝9時から夕方暗くなるまで、週1回だけである。平日は近所の多摩川のジャイアンツ練習場に遊びにいく程度で野球はやらなかったそうだ。

 

エピソードを紹介しよう。
かれが通った玉堤小学校は3階建てで、屋上ではちょっとしたボール遊びくらいはできたらしい。
ある時、ゴムボールが屋上から校庭に落ちてきた。だれかが暴投でも投げたのだろう。
「おーい、拾ってくれ。」
屋上から上級生が叫ぶのだが、だれが投げてもなかなか届かない。ところが望はそのボールを受け取ると屋上まで投げ込んでしまったのだ。まわりにいた子供たちはびっくりしたにちがいない。信じられないことだが、かれはその時小学1年だったのである。
皆様のなかに、3階建ての学校の近所にお住まいの方がおられたら、ぜひ一度お試しいただきたい。軟球や硬球ならともかく、ふにゃふにゃのゴムボールはそう簡単に屋上まで届くものではない。
特別な練習をした覚えがない、というから、おそらくかれは生まれながらにしてボールを遠くに投げるコツを知っていたのだろう。

 

野球のノックのときも才能を発揮した。
上級生がノックを受けている。
球に対して捕球動作に入る、捕る、ステップを踏んで1塁に投げる。この一連のプレーを、望は見ているだけで同じことができたという。

 

地元の緑丘中学校に進学してからは、サッカー部やソフトボール部に在籍した。
日曜日の試合がリトルリーグの練習とかさなるため、野球部に入部させてもらえなかったからだ。
サッカーはどうだったのだろう。
「平凡な選手でした。いくら練習をしてもどうせ日曜の試合には出場できないので、熱も入りませんでした。」
ただ、足は相当速かったようだ。
中学3年のとき、かれは世田谷区の連合陸上大会に出場して100メートル走で3位に入賞している。
11秒6だった。


(つづく)

 

 

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