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ハスラー列伝 (蔵之前忠勝編4)


プロ入り後の蔵之前さんはそれほど華々しい成績を残したわけではない。

79’全日本選手権14ー1の部準優勝(決勝は対奥村健)
81’全日本選手権14ー1の部3位タイ
82’全日本選手権ローテーションの部準優勝(決勝は対奥村健)
   全日本選手権14ー1の部3位タイ      
83’全日本選手権14ー1の部準優勝(決勝は対井上淳介)
84’全日本選手権14ー1の部3位タイ
88’全日本選手権14ー1の部優勝 (決勝は対戸田孝)

しかも10年ほどで引退している。
「結局わたしは平場の選手だったということです。それが性に合っていた。試合の雰囲気が嫌いだったわけでは絶対にないんですけどね。まあ現代風にいえば、トーナメントプレイヤーではなかった。そういうことだと思います。」
試合向きの選手と平場の選手のちがいというのは相当微妙だが、要は試合を「勝負」と捉えるか「お祭り」と思うかの違いといっていいだろうか。
「だれが一番強いか。」という話題になった時、蔵之前さんの時代の大阪では「平場で強い」のが絶対条件であり「試合で勝った」というのはそれほど評価されなかった。
こういう風潮も影響しただろう。
プロにこだわる理由は何もなかった。

 

引退後の成績も追記しておこう。

00’エイトボールオープン3位タイ
03’エイトボールオープン3位タイ
   全日本14ー1選手権準優勝(決勝は対利川章雲)
04’全日本14ー1選手権優勝(決勝は対高橋邦彦)

 

2001年のジャパンオープン予選決勝。
蔵之前さんはストリックランドとの対戦を迎えていた。
ストリックランドは日本ビリヤードを軽く見ており、試合にくるのに物見遊山気分だった。
だが試合が始まると、みるみるうちに顔がまっ赤に染まった。
「なぜ日本にこんなのがいるんだ。どうなってるんだ。」
試合後、トーマス・マーチンを通訳に彼は話しかけてきた。
「あなたの球は普通ではない。どうやったらそんな球を撞けるんだ?」
当時のビリヤード雑誌に、この試合の解説とともにストリックランドのコメントが紹介されている。
「この人は強い。わたしはエフレン・レイズと対戦しているような気になった。」
その後も彼は会う人ごとに「日本にすごいのがいる。わたしは今まで知らなかった。」と興奮気味に話したという。
2001年といえば、蔵之前さんは51才か52才のはずだ。50才を過ぎてなお世界のトップを唸らせたのは「オクムラ」と「クラノマエ」の二人くらいのものであろう。

 

 

2008年2月。
わたしは大阪千日前の「アメリカンクラブ」に蔵之前さんを訪ねた。
ここには山本眞祥(JPBA)と飯間智也(JPBA)が所属しているが、その時はたまたま仙台から森学(JPBA)も来ていた。
わたしの友人はこの店を「魔界村」と命名したが雰囲気としては合っているだろう。
森学などは昼12時から翌朝3時までの15時間ほとんど休憩もせずに撞き続け、そして蔵之前さんはずっとその練習をみている。たまに一言二言会話が交わされるが、それ以外は無言だ。
いい球をみると「ちょっとやろうか。」と対戦が始まるのだが、練習といってもそれは真剣勝負そのもので、軽口の多いわたしも滅多に口を挟める雰囲気ではない。この男は数十年飽くこともなくこうやって練習をつづけてきたのだろう。
「最近調子はどうですか?」
彼は、まあぼちぼちやっていますよ、とニコニコ笑っているだけだったが、飯間智也が耳打ちしてくれた。
「1月のアベレージは31点でした。」
蔵之前さんは100点ゲームを1日最低4、5回撞くそうだが、それで1ヶ月のアベレージが31点だというのだ。
国内にアベレージ10点以上の選手が数えるほどしかいないゲームで、しかも全盛期から25年を経てのこの数字は「化け物」としかいいようがない。

 

現在蔵之前さんは「大阪14ー1ラック研究会」の会長を務めているが、ここは厳しいことで有名だ。
「プロ又はプロをめざす者」が集まって毎月2回の例会を行なっているが、遅刻2回でクビ、連絡なしの欠席は1回でクビだという。
「14ー1は上級者のゲームというイメージがあるが、どうなんですか。」
わたしが言うと、彼は不思議そうな表情を浮かべた。
「冗談でしょ? だれがそんなことを言ってるんですか? わたしはむしろ初心者こそ14ー1から始めるべきだと思っています。なんといっても入れる楽しさ、それがポケットの醍醐味ですよ。」
わたしは「ネオナインボール」の話をしてみた。このゲームは最後に9番を入れるという点では通常のナインボールと同じだが、1番から8番まではどの順番で入れてもいい。一般的には初心者向けのゲームといわれているものだ。
「それはおもしろいですね。条件付きのボウラードのようなものだ。それはおもしろい。」
蔵之前さんは好奇心が旺盛なのか興味津々でいろいろ質問をしてきた。その目は小学校の子供と同じ目だ。球に対してこれほど純真な人がいるだろうか。
ビリヤードにはパズルを解くのと同じようなおもしろさがある。球を自在に操る技術のほかに、パズルを解く頭脳が必要なのだ。そしてこの頭脳を鍛えるためにはエニーが適しているのではないか。
そんな話を彼は熱っぽく語ってくれた。
大阪の夜は明けようとしていた。

 

2008年の夏。
蔵之前さんのもとに「US14ー1選手権」から招待状が届いた。日本代表として出場してほしいという内容だったが、彼はこれをあっさり辞退している。
「アメリカに行ってパンばかり食わされたんじゃたまらん。」
辞退の理由をきかれて彼は冗談で答えたが、その真意はわたしには何となくわかる。
60才になろうとしている男がやるべき仕事は、自らが晴れ舞台に立つことではなく世界に出ていく選手を育てることではないのか、と。それが「14−1研究会」であり日々の指導や普及活動なのだ。
「何でもやってみろ。何でも試してみろ。」が蔵之前さんの口癖だが、思えばかつて「キャラバン」に集まってきた面々はそれぞれが全く違うタイプだった。
彼らの球にわたしは勝手に「片岡出し」「小杉出し」などと命名したが、その中でもとりわけ特異だった逸崎康成のストロークは「放り投げ」と呼ばれた。
ビリビリに痺れる大舞台での勝負球をいかにして沈めるか、彼らは自分で考え、撞き込み、実践してみせた。それらは眩しいほど個性輝くものだったのだ。

 

蔵之前さんは現在千日前の「アイオイステージ」に所属している。
この店のオーナーの辻本が以前経営していた「GRIPS」は、年下の蔵之前さんに兄事していた中島啓二が最後に所属した店だったのだ。わたしはこのあたりに強い運命を感じる。
この8月、中島啓二は23回忌を迎える。

 

蔵之前さんが還暦と聞くと時代の流れを想ってしまうが、人は成長し人は衰える。それは容赦のないものだが、しかし知識と経験は残る。
彼が心血を注いで育てた選手たちが世界を相手に大勝負を繰り広げるのは何とも痛快ではないか。それは蔵之前忠勝の悲願でもあり、わたしたちビリヤードファンの期待でもあるのだ。

 

(おわり)

 

 
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