蔵之前さんの球をじっと見続けていたエフレン・レイズはポツリと呟いた。
「とてもできない。わたしには無理だ。」
でも、と彼は言った。
「それでも、ゲームになったらわたしは負けないけどね。」
レイズが日本ではまだそれほど有名ではなかった頃、ふたりはよく撞きエキシビションなどにも一緒に行った。お互いに全盛期だった時代の対戦は、よほど見ごたえのあるものだったであろう。このふたりの親交は後に蔵之前さんの弟子の小杉純一に引き継がれ、さらにその後小杉はレイズを追って日本を捨てることになるのだ。
わたしの友人に山本利彦というのがいる。
この男は90年代初頭にアマチュアながらも「関西オープン」を制し、300円の6人ジャパンで47万円勝ったという強豪だが、これが「関西オープン」で勝つ数年前に蔵之前さんに挑んだことがある。
だが開始早々わずか5分で3連続マスワリを食らうなどして惨敗。ジャパンに至っては4・6・8のハンデを振られる始末で、さすがの強豪山本利彦をもってしても蔵之前さん相手にはほとんどゲームにならなかった。
他人の球を頑として認めようとしなかった中島啓二も、角当さんと蔵之前さんの二人だけは認めていた。
「角当さんは球を撞くために生まれてきたような男だ。」
と言い、蔵之前さんについては、
「あの球は絶対にできない。あれはちょっとおかしい。」
と嘆かせた。
全盛期にはボウラードは20ゲーム中19ゲームがパーフェクト、ナインボールは一晩でマスワリ110回を記録するなどおよそ信じられない域に達し、手のつけようのない状態になった。
蔵之前さんのプロ入りは29才と決して早くはない。
なぜプロになったのか、との質問に対し答えは単純明快だった。
「賭け球の相手がいなくなったからです。」
この部分は説明が必要だろう。
プロ・アマを問わず30年前には試合はほとんどなく、全国規模の大会といっても全日本選手権くらいのものだった。
どんなに強くなってもトーナメントで食っていくという選択肢はなく(今でもないが)、球屋経営か賭け球以外に生活手段がない以上、賭け球の相手がいなくなるというのは「ビリヤード界の失業者」を意味したのだ。
こういうのは例えば囲碁の「懸賞打ち」や将棋の「真剣師」のように、安い勝負は負けて高い勝負で勝つとか、5回に1回はわざと負けるとかいろいろあるのだろうが、蔵之前さんは性格的にそういうことをできなかったので賭け球師としての寿命は当然短かった。
対戦相手がいないのでボウラードで賭けをやったりした。パーフェクトを出せるか出せないかを賭けるのだが、これも客の全員がパーフェクトの方に乗るので賭けそのものが成立しなくなりそのうちにやらなくなった。
弱いころにはさんざん負けて、一生懸命練習して強くなったら相手がいない。因果な循環であるが、彼はここに至ってプロ入りを決意しビリヤード店を出すことにした。
「キャラバン」という。
そこには片岡久直、横田武、小杉純一、岡崎伸次、逸崎康成らが集まり、さながら「梁山泊」の様相を呈した。
当時のプロ協会は同好会に毛の生えたようなもので、プロになる動機も「ふんぎり」ということ以外に何もなかったが、どういう状況にあっても蔵之前さんは人生の全部を球に賭けていた。
ここに「14ー1」というゲームがある。
「相手に撞かせずに勝つ」というビリヤードの理想、14ー1はそれを狙ってできるゲームだ。
例えば9ボールの場合であれば、大阪で通称「ポパイ」と呼ばれた某アマチュアの17連続マスワリがわたしの知る最高記録だが、これとてもブレイク後の取り出しなど運がなければできない。
「だれがなんと言っても歴代最強は角ちゃんだ。」と蔵之前さんが絶賛する角当さんは「精密機械」と呼ばれ、彼と14ー1で対戦してもほとんど撞く機会はなく、たまに順番が回ってきてもセーフティーの後始末ばかりで何もさせてもらえなかったという。
プロ入りと前後して、蔵之前さんはこのゲームに興味を持った。
ひとつには9ボールの相手がいないということもあっただろう。以前と違って自分の店の客を自分が潰したのでは漫画になるので、半分は9ボール、残りの半分は14ー1を撞いていたが、次第に14ー1の割合が増えていった。
9ボールがなるべく他の球を動かさずに取り切るゲームだとすれば、14ー1はその逆でトラブルを解消しながら局面を作っていくゲームである。
そのあたりが性に合ったのだろう。
蔵之前さんはOPBC(大阪14ー1研究会)に参加し、スティーブ・ミゼラクの球をビデオで研究しながら毎日猛練習に明け暮れた。
思えば蔵之前ビリヤードとは一人練習の集大成である。
「センター初球を引いて手前にスクラッチさせるのに3年かかった」という話は以前紹介したが、現在の環境であれば早い人は1ヶ月でこの程度はできるかも知れない。では2年11ヶ月の差は無駄な練習に費やされたのか、ということになるがそれは間違いだ。
道先案内人がいないので自分で考え一人で練習する以外になかったのだが、一見無駄とも思われるアホらしい練習の全てが蔵之前ビリヤードには脈々と息づいている。
それは「芸の幅」ということだ。
数年後の花谷さん(プロ1期)との対戦を機に、彼は自らの進むべき道を見定めていた。
125点ゲームを3回連続で取り出しから1イニングで撞き切った時(いわゆるS125の3連発)、蔵之前さんはここでやっと花谷さんを捉えたと思っただろうし、目の前がひらけた思いがあったにちがいない。
「ひとつの大きな壁を超えた気がしましたね。」
その頃には「14ー1の蔵之前」の名は揺るぎないものになっていた。
(つづく)
|