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ハスラー列伝 (蔵之前忠勝編1)

 


スティーブ・ミゼラク

 

今から25年ほど前になるだろうか。
1982、3年ころのある日、大阪京橋のビリヤード店「みやこ」には並みいる強豪が集まっていた。
それがOPBC(大阪14ー1研究会)の集まりだったのか何かの試合だったのか忘れてしまったが、そこでは2、30名の選手たちがそれぞれ対戦していた。
泣く子も黙る連中のじつに見ごたえのある対戦ばかりだったが、その中のひとりの奇妙な選手にわたしの視線は釘付けになった。
奇妙といっても行動がおかしかったというのではない。
なるほど、たしかに風貌は尋常ではなかった。それは身長180センチ以上の大男で、しかも前科20犯のような凶暴な人相である。一見してただ者ではない。
だがわたしの興味をひいたのは風貌ではなく、その男のストロークだった。
穴前の小さい球。
チョコンと撞けばいい球を、その男は50センチ以上もドローンとキューを伸ばしたのだ。それは他の選手とはまったく異質のストロークだった。
「なんじゃ、あれは。」
なぜそんなことをする必要があるのか、わたしには理解できなかった。いや、本人以外にはわずかに花谷さん(プロ1期)を除いてその当時日本中のだれもが理解できなかったにちがいない。
「14ー1の神様」スティーブ・ミゼラクを思わせるそのストロークは、それ以来わたしの記憶に焼きついた。
それがわたしが蔵之前さんを見た最初だった。

 

蔵之前さんの噂はその以前から聞いていた。
「天才」と呼ばれた唯我独尊の中島啓二が「おれはポケットの世界で頭を下げるべき人間は二人しかいない。それは角当と蔵之前だ。」と明言していたのだ。
プロ入り後のボウラードの生涯アベレージ298点。一晩でマスワリ110回。
その球は全盛期のエフレン・レイズをも唸らせたという。
「わたしより強い。とても真似できない。」
辛口のストリックランドなどは「どうして日本にこんな選手がいるんだ。」とまで言った。
中島啓二の遺志を継ぐというわけではないが、わたしは蔵之前忠勝を書いてみたいと思う。

 

 

わたしがビリヤードを始めたのは1975年ころだったので球歴をいえば33、4年ほどになるが、その間の日本ビリヤードの進歩はどの部分だっただろうかと考える。
いろいろあるだろう。
だが技術的な部分に限っていうなら「前で撞く」ということに尽きると思っている。
30年前の日本ビリヤードのスタイルは、うしろ(バックスイング)が大きく前が小さかった。それはプロといえどもそういうストロークだったのだ。
わたし自身、「キューを出せ」とはいわれたが「前で撞け」とまではいわれたことがない。
14ー1と9ボールの一番大きな違いは「空クッション」だろう。
14ー1はどの球から入れてもいいので「空クッション」の使用頻度は低い。
スティーブ・ミゼラクはそこを攻められて9ボールの試合ではエフレン・レイズに敗れ去ったが、「14ー1の神様」の称号が揺らぐことはない。
蔵之前さんはスティーブ・ミゼラクの影響を大きく受けたのにちがいない。
「うしろで狙って前で撞く」
それは、うしろが小さく前に長く出すストロークだった。
だが30年前、日本中たったひとりでそのストロークで戦うことはたいへんな勇気が必要だったにちがいないのだ。負ければなにを言われる。曰く「異端児」、曰く「勝てないビリヤード」。

 

1990年ころ、アメリカツアーから帰国した小杉純一はストロークの改造に取り組む決意を固めていた。
アメリカツアーではっきりしたこと。それはストロークの違いだった。
かれはどうしてもそれを取り入れる必要に迫られていたのだ。
「今のままでは日本ビリヤードは世界から取り残される。日本と世界の差、それは前で撞くということです。これをできなければ到底世界とは戦えないと思います。」
当時国内最高クラスにいた小杉が危機感を持ち、たいへんな努力をして掴もうとしたのが「前で撞くストローク」だったのだ。
それに先立つ10年以上も前に、蔵之前さんはそのことを予感していたのかどうか「前で撞く」ことを考え、そして実践していた。
まさに「現代ビリヤードのパイオニア」といっていい。

 

(つづく)

 


 
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