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ハスラー列伝 (井上淳介編2)

 

「わたしの師匠は花谷勝です。」
淳介さんは胸を張ってそう言った。
「ただ、向こうがわたしを弟子と思ってくれているかどうか、それはわかりませんけど。」

 

淳介さんが花谷さんのところに通い始めたころ、花谷さんの方は全日本選手権14−1の部で優勝するなど既にトッププロだった。ふたりは年齢的には1才違うだけだが、ビリヤードには格段の差があったのだ。
初めて花谷さんを訪ねたとき淳介さんは息をのんだ。
花谷さんは弟子の長谷川邦夫と撞いているのだが、クーラーが故障しているのかふたりともパンツ一丁である。更に驚いたことに、店は満員御礼で待ち客がいるのに客は待たせたままでいる。
「これには驚きました。わたしも球屋をやっていますが、お客さんを待たせておいて店員が撞くなんてのはありえないことです。ああ、ここまでやらなければトップになれないのか、わたしなんか全然アマいな、そんなことを思いましたね。」
この当時は師匠といえども弟子にはほぼ何も教えなかった。ひたすら撞く中で、弟子は師匠の技を盗む以外にない。
この点についてはわたしの知人も述懐している。ある時押し球に違和感を感じたかれは花谷さんを訪ねた。
「MAXの押しを1球だけ見せて下さい。」
花谷さんは押し球を1球だけ撞いてみせた。説明などは一言もない。万事こういう調子だったのだ。
「花谷さんのところに修行に行った、といえばカッコいいのでしょうけどね。実際にはほとんど撞かせてもらえないので座っているだけですよ。まあ、ラックの練習にはなりましたかね。」
この時期、淳介さんはメキメキ上達したようだ。練習時間が特別に増えたわけではないので、球に対する姿勢が変わったとしか思えない。その上達ぶりには花谷さんも舌を巻いた。
「淳ちゃんは勘がいいというのかねえ、すぐに吸収してしまう。アマチュアの頃は強いって言ったってかわいいものだったんだけど、2年もしたらこちらが本気で行ってもなかなか勝たせてくれなくなった。あの上達のスピードにはびっくりしたね。」
それにしても師匠が「押しの花谷」と呼ばれたのに対し、弟子の方は「引きの淳介」だったのだからおもしろいものだ。口頭での説明がないので結局のところ弟子はその観察眼と感性に頼るしかない。そんなことからこういう現象がうまれたのかも知れない。


 

アマチュア時代にはほとんど他流試合をしなかった淳介さんだが、プロ入り後は堰を切ったように好敵手を求め歩くようになった。
ひたすら一人で練習するだけではなく、多くの球を見て技を盗みそれを持ち帰って練習するように方針を変えたのである。
国内の選手はもちろんのこと、ブライアン橋本やドミンゲス、あるいはレイズが来日すると聞くと会場まで出かけていった。
後に淳介さんは台湾、フィリピンをはじめヨーロッパにまで対戦相手を求めるようになるが、それらは全て36才でのプロ入り後のことだ。当時のヨーロッパは果てしなく遠かったが、「50才限界説」を信じるとすれば余すところ14年しかない。これは大急ぎで駆け上らねばならぬ。

 

こうして多くの選手と対戦した淳介さんだったが、その中でも特に熾烈を極めたのは奥村健である。
ふたりは年齢的には12才とかなりの開きがあるが、ウマが合ったのか奥村さんは関西に来るとたいてい淳介さんの家に泊まり、そして撞いた。
店の営業時間中は淳介さんには何かと仕事があるので、その間は奥村さんも一人練習することになった。
そこで淳介さんは異様な光景を目撃する。
奥村さんは練習するといいながら台上に球も置かずにじっと椅子に座っている。そのうちにキューを握ると立ち上がり、台の方に歩いていく。そしてブレイクする、のだが球はない。それが終わるとまた椅子に座る。これを繰り返しているのだ。
どうやらブレイク前にテンションや集中力を上げるためのイメージトレーニングらしいのだが、延々1時間もこれを続けたという。
「ぞっとしましたね。これはただ者ではない、と。わたしもずいぶん多くの選手を見てきましたが、ブレイクのイメージトレーニングを1時間も続けたのは奥村君以外に知りません。」

 

その後1979〜82年まで奥村健全日本選手権4連覇。それに続いて1983、84年と井上淳介全日本選手権2連覇。
遅咲きの淳介さんはようやくトッププロの座をつかんでいた。




(つづく)



 
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