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ハスラー列伝 (井上淳介編1)

昭和7年ころ。中央が淳介さんの父。女性たちは「ゲーム取り」。右後方に「米式ローテーション」の看板がみえるが、これはポケットのこと。因みに「英式ローテーション」はスヌーカーである。

 

どうにも記憶がはっきりしないが、1990年前後のプロ選手権だったと思う。
淳介さんは7番8番9番の3つを残してこれを沈めれば優勝という舞台に立っていた。7番から8番に引きさえすれば後はチョンチョンである。だが、これをしくじった。
その瞬間の会場のどよめきと天を仰いだ彼の姿をわたしは忘れずにいる。
それから数日、わたしのホームはその話でもちきりだった。
「あの『引きの淳介』でさえも失敗した。ビリヤードとは何と恐ろしいものだ。」
成功しても失敗しても話題になるほど淳介さんには華があった。
36才になってプロ入りし、蔵之前忠勝をして「稀代の勝負師」とうならせた井上淳介をわたしは書こうと思う。

 

後に淳介さんは四つ玉の10本(500点)選手になるが、さぞかし手ほどきを受けたのだろうと思っていたら大まちがいで、球屋の息子に生まれたものの意外にも彼は父からビリヤードを厳しく禁じられていた。
「ビリヤードなんかやってもロクなことにならん。そんな暇があったら勉強しろ。」
だが彼は隠れて撞いた。
そのうちに少しくらいは撞けるようになったのだろう。中学生のころ店の常連に連れられて天神橋6丁目の「北陽」に行く。そこは「ニギリ」(隠し球)のメッカだった。
参加料100円で、自分の球を入れたら全員の参加料を総取りである。
当時の100円は大したもので、1965年ころ私の実家では1個10円の鶏卵を買うのがしんどくて庭でニワトリを飼っていたし、小学生の小遣いは一日10円が相場だった。
そして淳介さんはこの勝負に勝つ。
1ゲーム終わるたびに100円札5、6枚をわしづかみにしてポケットに入れる感触は、この後50年以上もつづく彼のビリヤード人生の原動力になった。

 



セリー
上図のような状態から白球を撞き台の周囲をぐるぐる回る。中島啓二はこの技を駆使して5点制で3万点撞いた。このセリー防止のために考案されたのがボークラインである。

だが、わたしの知人(故人)はポケット台でセリーをやった。6つの穴をかわして台の周囲をぐるぐる回ってみせたのだ。名人芸である。

 


大学卒業後3年ほど会社勤めをした淳介さんは、25才ころ高齢の父にかわってビリヤード店の跡を継ぐことになった。「吹田中央ビリヤード」である。
「正直なところ球屋経営にそれほど興味はなかったです。他に夢もあったしね。ただ、自分をここまで育て大学まで行かせてもらえたのはビリヤードのおかげです。それを思うと閉店する気にはなりませんでした。」
この頃には、商売としてもビリヤードはそれほど旨味のあるものではなくなっていた。
それまではゲーム代と散髪代はほぼ同じくらいの値段だったのが、1975年ころにはゲーム代360円に対して散髪代は1500円と大きな差がついていたのだ。
しかも全盛を誇った四つ玉人気に翳りが見え始めていた。
かつての5点制のときは5点当たりを狙って様々の妙技があったのだが、1点制になりその必要がなくなったためにゲーム自体のおもしろさが半減し、その後四つ玉は急速に衰退することになる。
淳介さんはそれまで2台だけだったポケット台を増やし、他店との対抗戦を企画した。「吹田中央チーム」は強く、それ以後30〜40回行われた対抗戦で一度も負けなかった。

 

淳介さんの不思議なところは、球屋を経営していながら25才から33才までの間、試合に出場しなかったことだろう。
普通はある程度強くなれば試合に出てみたくなるものだが、彼はひたすら自分の店で常連相手に撞くばかりだった。
それが1974年、突然「内閣総理大臣杯」に出場する。
ローテーション180点のこの大会が彼のデビュー戦である。34才だった。
順調に勝ち進んだ淳介さんだったが、決勝で新進気鋭の横田武(現JPBA)に敗れ準優勝に終わる。
これが彼の闘魂に火をつけた。

 

淳介さんの悔しがりようは尋常ではなかった。
デビュー戦で準優勝は立派だと思うのだが、この負けず嫌いが彼の真骨頂だろう。
その時から猛練習の日々が始まった。しかも自分の店での練習だけでは満足できずに花谷さんの店に通うことにした。
「吹田中央」の営業時間は朝11時から夜12時までだったが、営業が終わると片付けを済ませて車で花谷さんのところに向かい、朝5時まで撞いてから帰ると翌朝11時に店を開ける。
毎日というわけにはいかないので2日に1回のペースで通った。
そうして75年後藤章二(故人)の後に次いで
翌76年「内閣総理大臣杯」に優勝。これを期にプロ入りを果たす。
36才になっていた。

 

(つづく)



 
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