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ハスラー列伝(抹消された男2)

 

Iにとって「風呂屋」は最高の環境だっただろう。
彼にはスポンサーがつき、勝てば折半、負ければ全額スポンサー払いなので自分の腹が痛むことはない。
また、賭け球で稼ぐ上で最も重要な営業活動もスポンサーの方でやってくれるので、彼はひたすら球を撞いていればよかったのだ。実際「風呂屋」は連日大勢の客で賑わっていた。

 

ある日、スポンサーが大勝負の話を持ち込んできた。相手は当時ようやく世界に名を知られつつあったフィリピン選手である。
たいへんな難敵だが、Iは一も二もなく引き受けた。負けたところで自分の腹が痛むわけではないので大きい勝負は望むところである。
後になって思えば、この対戦こそが彼にとって一世一代の晴れ舞台だっただろう。
夕刻に始まった対戦は序盤こそ一進一退だったが、途中でペースをつかんだIはスルスルと抜け出し、中盤には17連続マスワリを含む圧巻のプレーを展開して局面を支配し、勝負は独り舞台になった。
その勢いは終盤になっても衰えることがなく、夜が明けるころにはIの勝ちは270万にまで膨らんでいた。
フィリピン選手は顔色を失った。

 

270万勝てばIの取り分は半分の135万である。
彼はそのままスポンサーのところに金を届けるべきだったのだが、途中で勝利を確信したスポンサーは帰ってしまっていない。
昼まで待てばよかった。
だが彼は、その金を持って住之江競艇に行き全部負けてしまう。後になって、どうしてそんなことをしたのだと聞いた人があるが、それに対してIは「金を増やして持って行けばもっと喜んでもらえると思った。」と答えているところをみると、頭の大事な部分がイカレていたのだろう。
その日のうちに、逃げた。

 

わたしにとってのIのビリヤードはここで終わる。
スポンサーは甘い人物ではない上に、だれかに仲裁を頼もうにも内容がお粗末すぎて話にならない。
相手が悪かった。日本の果てまで逃げたところで、彼の腕前であれば狭いビリヤードの世界ではすぐに噂になるだろう。噂になれば追っ手がやってくる。
逃げきるためにはビリヤードをやめる以外になかったのである。

 

Iのような人間が五体満足でビリヤードを続けることができたのは奇跡のようなものだっただろう。
当時の呉のビリヤードは不良の巣窟であり、かつての広島抗争事件ではやくざの幹部がビリヤード店から出てきたところを待ち伏せされて射殺される事件も起きている。
流れ者のIが受け入れられたのは、球に関しては親切だったからである。
彼は当時では当たり前だった「見て覚えろ」式ではなく上級者から初心者に至るまで懇切丁寧に指導した上に、球自体も地方都市の選手たちがそれまでに見たこともないほどに鮮やかなものだったので大勢の人が集まってきた。
普段は手球をコーナー穴前に置いてまっすぐのロング引きで手前にスクラッチさせる練習に多くの時間を費やしていたが、これは背が低かったので立てキューの技術を磨く意味もあったのだろうと思う。立てキューは背が高いほうが絶対に有利である。
「オレの立てキューは日本一や。」と本人も自信満々であったし、手前にスクラッチさせる練習で何回か連続で成功すると「球は丸いから何でもできるんや。」などと上機嫌で、ビリヤードだけのつきあいをする分にはいい性質の人物だった。
大阪から夜逃げするにあたりIがなぜ呉を選んだのか知らないが、彼が来たことは呉のビリヤードにとっては幸運であった。現在、呉のビリヤードの指導的立場にいる人たちの多くはIに球を教わったのであるし、彼らの中にはIのちょっとした仕草を物真似するような熱狂的支持者もいて、それは師匠と弟子というよりも、教祖と信者の関係に近かっただろう。
たったひとりのIが来たことで人口約25万の呉には10軒ほどのビリヤード店が乱立してそれぞれが賑わい、しかもこの時期に劇的にレベルアップした。
Iは悠々と生きていた。
キャロムを撞きポケットを撞き、そのどちらにも傑出していた彼は大勢の弟子に囲まれて絶頂の人生を送っていたのだ。
だがどんな選手にも弱点があるように、彼のビリヤードにもまた致命的な弱点があったのである。

 

 

(つづく)

 



 
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