サイトトップサイトトップサイトトップ
corner
マップ
サイトトップ
サイトトップ
選手
用語集
用語集
掲示板
リンク
 
サイトへの
お問い合わせ

left_down_right
left_down
ハスラー列伝(抹消された男1)

 

30年くらい前、大阪に一軒の球屋があった。
球屋といっても正式なビリヤード店ではなく、ポケット3台四つ玉1台を倉庫の中に置いているだけで看板すらない。銭湯の裏にあったので通称「風呂屋」と呼ばれていた。
ここには腕自慢が集まってきた。主に関西圏の強豪や「名人」とまで謳われた人などもいて大抵は4〜6人でジャパンをやったが、通常のジャパンで1点500円、ラスト20マスは1点2000円だったのでかなりの高額レートである。ジャパンは3、5、7、9が点球なので関東圏で主流の5−9のインフレ版といっていい。
最高クラスのメンバーが集まってきたものの、おそらくはその中でトータルで勝った者は一人もいなかったであろう。
それは、この店には化け物のように強い番頭がいたからである。
その男は「I」といった。

 

わたしは少しばかりの覚悟をもってIを書こうと思う。
この男はわたしの師匠の師匠なので、師匠を父とするならわたしにとって芸道上の祖父にあたる人物である。本来であればわたしは「I先生」などと呼んで深く敬愛するのでなければなるまい。
だが、そんな気持ちは毛頭ない。
Iはビリヤード以外の事柄については完全に破綻しており、つまらない悪事を繰り返した挙句にそれが発覚するとそのたびに夜逃げをした。かつてビリヤードが「不良の遊び」といわれた時代にあっても、その所業はひどすぎた。
当時の彼を知る人に尋ねても、Iの球がああだったこうだったという話題になる以前に、10人中7人は「そんな人は知らない。」と答えるだろう。関わりたくないからだ。つまりはビリヤードの名簿から抹消された男といって差し支えない。
ここで本名を書くとわたしのところに借金取りが押し寄せる可能性があるし、一方で意外にも彼を神のごとくに崇拝する人たちもいて、その人たちのためにも「I」で書き進めたい。
第一、わたしが本名だと思っている名前にしたところで、本名かどうか知れたものではないのだ。
小方浩也氏の最後の弟子だと言い、スリークッションのハイランが27点だと言っていたが本当かどうかは知らない。当時わたしが通っていた店にはスリークッションの台がなかったからである。
でたらめな彼の人生において本当のことがあったとすればただひとつ、球は紛れもない本物だった。

 

わたしがIに出会ったのは広島県呉市で、ビリヤードを始めて間もないころだった。もう35年も前になる。
彼は地元の出身ではなくいわゆる「流れ者」で市内の球屋で働いていたが、学生時代に体操の選手だったとかで背は低かったが筋肉隆々なところから「ポパイ」と呼ぶ者もいた。
ある日わたしが店に行くとたまたま四つ玉の試合をやっていた。たしか3台使っていたと思うが、その中の1台を観客が取り囲んでいる。
「あの台で撞いているのがものすごく強いそうだ。何でもエントリーした時点で優勝が決まっているらしいぞ。」
仲間に教えられてその試合をみると、なるほど観客の間でため息がもれている。たまに「ナイスショット。」などと歓声が沸くのだが、わたしにしてみれば何がナイスなのかわからないので退屈で仕方がない。仲間といっしょに店を出て1時間くらい時間潰しをしてから再び店に帰ってみると、その男はまだ撞いている。
それがIだった。

 

初心者のわたしにすればIの球は物理の法則を疑いたくなるような摩訶不思議なもので、コーナー穴前の手球を撞いて対角線上のコーナー穴前の球から引いてくるロングの引き球、いわゆる「馬車引き」をやって5回に1回くらいは手前のコーナーに狙ってスクラッチさせた。
キュー切れだけではなく腕も確かなようで、例えばローテーションのブレイクが終わると「1番はここ、次の2番はあそこ。」といった具合に1番から15番までの台上の全部の球を最初にコールし、その通りに取り切ってみせた。
後にローテーション180点の「内閣総理大臣杯」に出場した折も最初に全部の球をコールして180点を撞ききってみせたが、こういう人を食った態度は決して好感を与えなかったはずだ。お調子者、関西弁でいう「いちびり」の性格があったのだろう。
当時の呉のビリヤードはレベルが高く、前原、古満、新(にい)、沖田、下高(しもたか)らを中心に県代表クラスがひしめき合っていたが、Iとジャパンを撞くときは全員がオールボールのハンデを貰っていた。
今になって古い友人との間でIの話になった時、どうにも時期的な部分がチグハグになることが多い。これは彼が大阪を逃げて広島に来、広島を逃げて大阪に舞い戻る。しばらくするとまた広島に逃げてくる。これの繰り返しで大阪・広島間を夜逃げで2往復したので、ずいぶん昔のことでもあり話の前後関係が曖昧になってしまっているためだ。
このころが彼にとって最も充実した時代だったのかも知れない。
その後、働いていた球屋が火事で焼失。職場を失った彼は広島市内の雀荘で働くことになったが、店の売り上げをごまかして夜逃げしたと聞いた。
それからどこを彷徨ったのか知らないが、数年後には「風呂屋」の番頭になっていた。

 

(つづく)



 
Copyright(C),Billiard Pocket. All right reserved.

inserted by FC2 system