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桧山さんのこと


2005年3月3日の夕刻、桧山春義プロ(JPBA)が他界されたと聞いた。
もともと肝臓が悪かったそうだが、突然の訃報におどろいている。
謹んで哀悼の意を表すとともに、この場を借り昔話などを書きならべることで香典がわりにしたいと思う。

 

17、8年くらい前になるだろうか。
わたしが大阪に住んでいたころ、郷里広島から一人の男がたずねてきた。
須田という。
京橋の喫茶店で待っている、というので行ってみると、彼はいきなりとんでもないことを言い出した。
「ビリヤードのプロになりたいんです。そのためには広島にいても仕方ない。あなたのことを思い出して大阪にきました。知り合いのプロを紹介していただけませんか?」
なんの前触れもなくやってきて、プロになりたいと言う。わたしは返事に窮した。
「プロテストはボーラード3ゲームで650点だけど、何点くらい撞けるんだ?」
須田は堂々と答えた。
「つい最近、50点を超えました。」

 

わたしは椅子からすべり落ちそうになった。
こいつ、バカじゃないのか? 偏差値20の高校生が東大を志望しているようなものではないか。
「あの、なぁ・・・。」
説得して追い返そうと考えていると、須田はわたしの言葉を遮るように言った。
「もう広島には帰れないんです。仕事も辞め家出してきたんです。お願いです。一生懸命やります。お願いします。」

 

どうにもわたしはこういうのに弱い。第一、必死の思いで大阪まできた以上、プロの顔を拝まないことには納得しそうにもない。

 

大江明を訪ねた。
「お前さんもプロになったんだから弟子のひとりくらい連れてなきゃ格好悪いだろ? オレが一番弟子を紹介してやるよ。」
わたしはヤケクソ気味だった。
弟子入り試験のセットマッチが始まった。
驚いたことに、須田は信じられないくらいヘタッピだった。
後になって聞いたのだが、彼はプロテストのことばかり考えてボウラード以外やったことがなかったそうだ。撞く球のすべてがヘロヘロだった。教えてくれる人がいなかったのかも知れない。
弟子入り試験が終わって、大江はわたしに言った。
「ま、あんたが僕のことをプロだと思ってくれていた。それがわかっただけでも今日はうれしかったですよ。」
弟子入り云々については触れようとしない。体よく追い返されたようなものだった。
当然だろう。

 

大江の店を出てから須田に聞いた。
「今日はどこに寝るんだ?」
「・・・・・」

 

わたしの家に居候することになった。

 

次の日、片岡久直に電話をいれた。
当時の彼は梅田の大型店で支配人兼コーチのような立場だった。うまくすれば一人くらい雇ってくれるかも知れない。
「ひとり面倒みてやってもらえないだろうか? 目下のところ球は話にならんが、やる気についてはオレが保証する。」
事情を話すと彼は快諾してくれた。
「そういうことならすぐに連れてきてくれ。」

 

前日に引き続き弟子入り試験が始まった。
当然のことながらまるでダメだった。
片岡久直は須田の球をみてポカーンとしていた。からかいに来たのか、と思ったのかも知れない。
だがこの時わたしは妙なことに気付いた。
須田のプレースタイルである。
広島のいなかからボーラード50点のヘタッピが大阪にやってきた。そして今、片岡久直を相手に弟子入り試験を受けている。プロと対戦したのも昨日の大江明戦が初めてだったに違いあるまい。
普通だったら緊張のあまり手足が震えてもおかしくないはずなのだが、須田は黙々と撞き、黙々とミスを連発している。そして少しももの怖じするところがなかった。
「こいつは案外心臓が強いか、よほどバカのどちらかだろう。」
わたしはそう思った。

 

「まあ、しばらくオレのところに通ってきてくれ。」
片岡久直は引き受けてくれた。だが店内を見渡したところ、どうみても店員が多すぎる。
「正直言って店員は足りている。でもそれは気にしなくていい。心当たりもあるし後のことはまかせてくれ。」
須田が通い始めてちょうど1ヶ月が過ぎたころ片岡久直から話があった。
「知り合いが一人くらい面倒みてもいいと言ってくれている。オレのところは雑用が多いので、強くなりたいのだったらそっちに行ったほうがいいかもしれない。」

 

それが桧山さんだった。
当時 桧山さんは京都の阪急「西院」駅近くで「チュニー」というビリヤード店を経営していたが、その日ちょうど試合があって大阪に来ていた。
須田は試合会場に行った。
「ボウラード何点撞けるんだ?」
桧山さんに聞かれて須田はウソをついた。
「150点くらいです。」
本当のことを言って断られることを恐れたのだろう。

 

左が桧山さん、右が須田

 

桧山さんは片岡久直から事情を聞いてカラカラと大笑いしたそうだ。
「おもろそうな奴っちゃな。」
須田に会う前から弟子にしようと決めていたのだろう。その証拠にアパートまで準備してくれていた。須田はそのアパートから「チュニー」に通った。


「師匠は技術的なことはほとんど言われませんでした。見て覚えろ、ということだったと思います。一度、穴前の簡単な球を適当に撞いていたらこっぴどく怒られました。簡単な球ほど気持ちを引き締めろ、球をナメルな、と。」
「ちょうど2年くらいお世話になりました。その間言われ続けたのは、調子のいい時は誰でも入る。調子が悪い時の球がお前の実力だ。底辺を上げろ。技術的な面では、球を押し出すな、ちゃんと撞けということでした。そして、必死さが足りない、それをずっと言われました。僕としては必死で撞いてたつもりだったんですけどね。文字どおり背水の陣だったわけですから。」


須田が桧山さんのところに行ってから1年半くらい経ったころ、わたしは「チュニー」に顔を出した。
「どうだ。少しは撞けるようになったか?」
「はい。なんとか頑張ってます。ひさしぶりにちょっと撞いてもらえませんか?」
ひさしぶりも何も、わたしはそれまでに須田と撞いたのは1回だけだった。それも試合で対戦したのではなく、ローテーションだったかナインボールだったかの球の並べ方を教えた程度だった。

須田はおそろしく上達していた。
ボーラード何点くらい撞けるようになったのか聞いて、わたしはびっくりした。
「平均で270点くらいです。」


須田は念願のプロテストを受ける旨、桧山さんに相談したという。
「テストを受けてどうするんだ?」
「えっ? いや・・・僕はずっとプロになることが夢でしたし、合格する自信もあります。」
「そんなことを聞いているんじゃない。そりゃプロテストは受ければ合格するだろう。オレが聞いているのはプロになった後のことだ。プロになった後どうするんだ? 何か夢でもあるのか? それともただプロになるだけなのか?」
このあたりの志(こころざし)の高さこそが桧山さんの真骨頂だったであろう。
須田は返事ができなかった。
当然である。
たった1年半でボーラード270点は驚異的といっていいだろう。その間、死に物狂いで球に取り組んできたことは容易に想像できる。プロになりたい一心で仕事を辞め家出をして、藁にもすがる気持ちで大阪に出てきた。プロになった後のことを考える余裕などあるはずもなかった。
須田はプロを断念した。
その後郷里広島県福山市に帰り、数年を経て現在はビリヤード店「G-」(ジーボー)を経営している。大坪、小谷等中国地方の強豪が集まり、けっこう繁盛しているそうだ。


桧山さんは見た目は怖いが、腰の低い人だった。
シミシゲ工房の清水潤は桧山さんのキューをつくった。打ち合わせのために桧山さんは何度か工房を訪ねたそうだ。
打ち合わせが終わり帰り際に、
「よろしくお願いします。」
桧山さんは深々と頭を下げた。普通はキューメーカー側が頭を下げるものだろう。
慌てふためいた清水はなぜかその場で足踏みをしたという。


チャレンジマッチの時のこと。
アマ選手が、よろしくお願いします、と挨拶した。
桧山さんはまるで校長先生にでも挨拶するかのように「気をつけ」の姿勢から頭を下げ、
「こちらこそよろしく。」と言った。
相手選手はびっくりして手も足も震えがとまらず、試合内容については何もおぼえていないという。


そういう人だった。


桧山さんのような人がリーダーシップを発揮する時代がくればビリヤードの将来も明るいだろうとわたしは秘かに期待していた。
それだけに残念だ。
須田はもちろんのこと、桧山さんを知る人たちが生前の彼の話を語り継ぐことこそが、桧山春義に対する最高の供養であるように思える。


 
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