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ハスラー列伝 (花谷勝編3)

 

USオープンは「ローテーション」480点と「14−1」125点の2種目で行われた。予選10人リーグの上位2名が決勝トーナメント進出である。
藤間さんとともに参戦した花谷さんは10人リーグを7勝2敗で終えたものの、わずかな得失点差で3位になり決勝トーナメント進出は逃した。だが大舞台での好成績は彼に強い自信を与えたにちがいない。
USオープン出場が決まってから、花谷さんは試合以外にひとつの目的を持っていた。
「アメリカのビリヤード」。
それは噂には聞いていた。「14−1のハイラン200点以上の選手がゴロゴロいる」「平撞きでマッセのような球を撞くのがいる」。
それまでに、来日したビューテラー等数名の選手以外は見たことがなかった。なんといってもビデオがない。
彼はアメリカビリヤードを観察して目に焼き付け、それを日本に伝えようと考えたのである。
だが、試合会場に入って驚いた。
参加選手全員がそれぞれまったく違うフォームやストロークで戦っており、同じタイプの選手は二人といなかったのだ。しかも全員が自信満々で「オレがいちばん強い」という顔でいる。
花谷さんは困った。これではどの選手を観察すればいいのかわからないではないか。
結局、スティーブ・ミゼラクを観察することにしたが、これは藤間さんの一言からだった。
「14−1はミゼラクだ。これは強い。花ちゃん、ミゼラクを研究してくれ。」
たまたまアメリカに親戚がいた花谷さんはそこに泊まり込んで、自分の試合がない日でもミゼラクの試合観戦に出かけた。滞在は2ヶ月ちかくに及んだ。




(ジミー・ムーアの引き)
14−1のブレイクで、ジミー・ムーアは引き球でラックを貫通させた。パワーで劣る日本選手には不可能と思われたが、後に蔵之前忠勝がこの「引き球ぶち抜き」をやってのける。

 

 

ミゼラクは花谷さんを魅了した。
なるほど個性的な選手は他にもいた。たとえばジミー・ムーアは14−1のラックを引き球で貫通させたし、グリップひとつを見ても前にスリップさせる逸崎康成の「放り出し」の逆で、うしろにスリップさせる選手もいたのだ。
それらは魅力あふれるものばかりだったが、その中にあってもミゼラクは際立っていた。
そして観察を続けた結果、肘の使い方に興味を持った。日本選手は肘から先だけを振り限界まできたらそこから初めて肘を送り込むのに対し、ミゼラクは早い段階から肘を送り込んでいる。
「この球を日本に持ち帰って研究すれば、日本ビリヤードはアメリカに追いつける。」
花谷さんは夢中になってミゼラクを追った。

 

帰国した花谷さんは、さっそく研究を始めた。
何はともあれ「肘」である。通常、グリップと肘については途中で変更するのはよほど難儀とされるが、アメリカに追いつきたい一心の彼はまずはミゼラクの物真似から始めた。
じつはこれは危険な作業である。
「肘支点を肩支点に変える」。一口でいえばそんなところだが、一歩まちがえるとストロークがバラバラになってしまう可能性すらある。当時トッププロだった花谷さんがそんな危険を冒してまで取り組む必要があったのかと心配になるが、それは彼を少しも逡巡させるものではなかった。
2、3週間のうちになんとなくミゼラクの真似はできるようになった。だが、それで撞いてみて唖然とした。
引き球が引けない。

 

翌年、さらにその翌年と花谷さんは連続でプロランキング1位になっている。
ランキング1位の選手はご褒美としてUSオープンに招待されるので、3年連続で渡米することになった。
そしてアメリカに行くたびにミゼラクを追った。
最初の年は2ヶ月ちかく観察を続けたものの、帰国して1ヶ月も経ったころにはどんな球だったか忘れてしまっていたが、2年目には3ヶ月くらい覚えていられるようになった。
だが、依然として引けない。
花谷さんがようやくミゼラクの球を解明できたのは3年目のことである。彼は肘にばかり気をとられて、グリップと手首の観察を忘れていたのだ。
しかし、この3年間の試行錯誤が花谷さんの実力に直結したことは疑う余地がない。この頃には彼は国内における14−1の第一人者にまで成長し、関西では「押しの花谷、引きの淳介」と囁かれた。


 

(つづく)


 
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