ルー・ビューテラー
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ハスラー列伝 (花谷勝編2)

 

花谷さんは藤間さんを訪ねて京都に通い続けた。
自分の店の休みの数日前に連絡をしてから行くのだが、いつも「3ゲームだけだぞ。」という約束だった。
そうして150対100というプロとアマチュアのようなハンデで対戦が始まるのだが、あっという間に3連敗。ところが花谷さんは、約束の3ゲームが終わってもなんだかんだと藤間さんにまとわりついて離さない。
結局、毎回5、6ゲーム撞くことになった。
ふたりとも早撞きだが、それでも1ゲームに1時間以上はかかるだろうから藤間さんもたいへんな相手に見込まれたものだ。
「藤間さんはエラい人でしてね。試合を組む、スポンサーをつける、会場を探す、外国選手を招待する、そんなことをひとりで全部やるんですよ。それで試合が始まると運営をやっている。自分の試合の番になると『おい、花ちゃん。ちょっと運営に座っていてくれ。』とか言って出かけていく。途中で外国選手がトラブルを起こしていると解決する。それで優勝するんですから、これはもうスーパーマンですよ。」
花谷さんは藤間さんを深く尊敬していた。
「心の師匠です。」
プロ入り後に弟子入りするのもおかしいのでそう言ったものの、事実上の師匠のような存在だっただろう。

 

その後も京都通いは続いたが、まったく勝てない。
「京都からの帰りに、次の休みには家族をどこかに連れていってやろう、といつも思うんです。ところが休みの2、3日前になると『今度こそ勝てるんじゃないか。』という気がしてくる。こうなるともういけませんな。結局京都に行っていました。」
出稽古は1年半続いた。
5、6ゲームを毎月2回でそれを18ヶ月だから、約200ゲーム対戦したことになる。
そしてただの一度も勝てなかった。
200連敗である。
当時の「プロ紹介」に「プロフィール」のコーナーがあってこれは藤間さんが書いていたのだが、花谷さんの欄にはただ一言「練習量抜群」とあった。



(花谷さんの押し)
手球を3番にリク(二度撞き)させる。ふたつの球は団子状態で転がっていくが、なぜか途中で手球が3番を追い抜き先にクッションに入る。

 

 

創成期の選手が皆そうであるように、花谷さんは練習量抜群なだけではなく研究熱心だった。ストローク、練習方法から道具に至まで考えられる全てにおいて研究した。


遠い球を背伸びして撞くとき左足一本で立つよりも右足一本で立つほうがストロークが安定することにヒントを得て、右足を前に出すフォームを考案した。
スヌーカー選手のフォームを更に極端にした感じだが、これは周囲からは不評だった。
「その気持ち悪いフォーム、やめてくれ。」
それでも一年くらいこれで戦い続けたそうだ。

野球選手がバットに錘(おもり)を付けて素振りしているのにヒントを得て、25オンスのキューを注文したこともある。
それでキュースピードが上がると考えたのだ。

また、キューの糸巻きも考案した。
花谷さんの時代はグリップの部分に絶縁テープを巻くのが普通だったが、見栄えが悪い上に手に汗をかく選手はすべるので、じゃあ糸を巻いたらどうかと考えたのだ。こうして彼は、プロ1期というだけではなく日本人初の糸巻き職人になった。

当時のプロの試合は14−1が主流だったので、これの練習方法も工夫した。
まず台上に15個の球をばらまく。その中でクッションに近い球はクッションから10センチくらい離す。そこからフリーボールスタートでノークッションで全部取り切るのだ。

リク(二度撞き)の練習もずいぶんやった。
押し球の練習は二度撞きさせる練習が一番、と考えた彼はくる日もくる日もリクの練習を続けた。

 

ある日のこと、花谷さんは公式戦で藤間さんと対戦していた。
後に明らかになるように、そもそも彼はジャック・ブレイトやレイ・マーチンのような遅撞きは苦手で、ルー・ビューテラーのような早撞き相手には相性がよかった。
これにヒントを得た花谷さんは、わざとゆっくりゆっくり撞く作戦に出た。藤間さんも早撞きなので自分と同じように遅撞きは苦手だろうと考えたのだ。
だが、試合後に叱責される。
「花ちゃんよ。勝ちたい気持ちはわかる。でもな、観客にアクビされたらプロはおしまいだぞ。」
しかも試合はボロ負けだった。

 

これほど熱心な選手が上達しないはずがなく、数年後には花谷さんは堂々たるトップグループの一角を占めていた。
1973年の全日本選手権決勝で、花谷さんはルー・ビューテラーとの対戦を迎えていた。高速撞きで知られるビューテラーは、150点をわずか21分で撞き切って世界チャンピオンになり「マシンガン」の異名を誇っていた。
125点ゲームは大激戦になったが、125ー119でかろうじてこれに勝った花谷さんは、翌年のUSオープンの出場権を得たのである。



 

(つづく)


 
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