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ハスラー列伝 (BOSS編4)


本文とは関係ありません。

 

小杉は大阪市生野区の不良グループ時代にビリヤードと出会い、そのままのめり込んだ。
(後年この連中は小杉の試合と聞くと応援に駆けつけたので、小杉応援団は極めてガラが悪かった。)

 

小杉は毎日5000円をポケットに入れて、ビリヤードに通ったという。
賭け球(ジャパン)を撞くのだ。
ジャパンは3・5・7・9が点球で5と9がダブルなので、4〜5人撞きの場合ちょっと「入れ」が甘いと100点くらいすぐに負けてしまう。
しかもこの店はレベルが高く(後に梶谷景美を輩出する)、所持金5000円の中には当然球代も含まれるので、最初のうち小杉はほとんど他人のプレーを見ているだけで終わった。
普通は負ければすぐに帰りそうなものだが、小杉が他の選手とちがうのはそのまま椅子に座りこんで自分が抜けた後の戦いをずっと見続けたことだろう。
朝まで続けば朝まで見る。
それが終わると部屋に帰り、翌日夕方になると5000円持って出かける。
毎日通った。
ジャパンで勝つには「入れる」しかない。しかもできればサイドに入れたい。
後年「小杉マジック」と称された驚異的な「入れ」の強さはこの当時に培われたものだろう。
半年くらいでなんとか互角に戦えるようになり、1年後には相手がいなくなった。

 

小杉のキュー切れはちょっと表現のしようがないほど凄まじかったが、これは子供のころから習っていたボクシングが関係しているようだ。
かれの説によると、パンチとショットのグリップのタイミングは似ているという。
そういえばゴルフのセベ・バレステロスも、一時ボクシング・ジムに通ったと聞いたことがある。


 

「みやこ」のメンバーは、五十嵐先生(3C・小林伸明プロの師匠。かつての「大阪四天王」の一人)・田中忍(ボークラインプロ・店主)・小杉(ポケット)と磐石の態勢で常連客も多かった。
浜田(ORC8段)、大江(現JPBA)、辻本(ORC6段)、東野、稲垣、賀屋あたりが強く、さらに店と常連が一丸になって「小杉を世に出そう」という空気があふれていたので、小杉にとっては最高の環境だったといえる。
かれは毎日10時間は練習していたはずだ。
わたしがどんな時間帯に顔をだしても小杉は常に撞いていたし、店が非番の日には他店に行って撞いた。
5年間の「みやこ」時代は、かれの骨格をほぼ完成させた時期だったといっていい。

 

{わたしの目撃談}
●14ー1。相手選手セーフティー失敗の後、400点を撞き切った。
(相手はわたしだった。泣きそうになった。400対0で負けたのは、日本中でわたしくらいのものだろう。無念である。)

●公式戦で小杉のブレイクが終わると同時に、相手は「OK」を出した。

●プロ入り後の気もするが、
女流プロ4〜5人でジャパンを撞いているところへ小杉。
「点球は9番だけでいいから混ぜてよ。」
2時間で300点勝った。

 

当時の関西アマチュア界では、京都の桧山春義と大阪の小杉純一が双璧で、雷名とどろき渡っていた。
二人のプロ入りの時期についてわたしの記憶はさっぱりだが、小杉は1984年の「全日本アマスリークッション選手権」で3位入賞(持ち点30点)したのを最後にプロ入りした。
1985年だったと思う。
プロテストはボーラード3ゲーム合計650点で合格だが、小杉の場合は最初のゲームで300点出した時、審判が「小杉、お前もういい。合格!」と宣言したので1ゲームだけで合格した。(芸人の暴露本じゃあるまいし、わたしはこんな事を書いていいのだろうか。「時効」ということにしておこう)

 

数年後、桧山春義はプロテストの最初のショットをスクラッチさせた後、残り全部ストライクで890点を叩き出し数々の伝説とともにプロ入りを果たしている。

 

 

(つづく)


 
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