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啓二は中学生の時すでにスポンサーがいて、二人で賭け球の旅を続けたという。
映画「ハスラー2」の中学生版といっていいだろう。
相手を油断させるためかいつも学生服を着ていたが、ちゃんと学校に行ったのかどうか怪しいものだ。
わたしと知り合う15年くらい以前(いまから40数年前)に、二人はふらりと「京阪ビリヤード」に現れたそうだ。
「どなたかこの子と撞いてくれませんか?」
スポンサーに声をかけられて店員が目をやると、ヨレヨレの学生服を着た子供が立って、なにがおかしいのかケタケタ笑っている。
「いいですよ。」
まず店員が相手をしたが、負けた。
納得できない店員は、もう一回、もう一回、と数ゲーム対戦したが全部負けた。
結局、常連客たちは次から次へと対戦し全敗だったという。
それも一方的に負けるのではなく、全員いいところまでいくのだが勝てない。
そもそも啓二はフォームが悪いので上手に見えなかった。
小さいころからビリヤードを始めたうえにチビだったので、腕を横に向けてストロークする。
フィリピン選手のストロークに似ているが、当時は「悪いフォーム」とされていた。
ちょうどそのとき、「京阪ビリヤード」の最強選手が現れたそうだ。
この人は大阪では有名なアマチュア強豪で、チビの球をじっと見ていたがやがてキューを握った。
「みんな遊ばれとるんや。このガキ、ただ者やない。オレがやる。」
だが、この人も負けた。
たいへんなことになった。
当時のビリヤード店は剣術道場に似た意識があって、最強者が負けたとなるとこれはもう店の看板を持っていかれるようなものだ。
しかも「道場破り」の方をみると、相変わらずケタケタ笑っている。
引っ込みがつかなくなった常連のひとりが、知り合いのプロ崩れに連絡した。
「すぐに来てくれ。」
助っ人を呼んだのである。
だが助っ人は来なかった。
「そのガキ、学生服着たチビか? それやったらアカン。昨日コテンパンにやられたところや。」
店が暇な時間にわたしは啓二とよく撞いたが、「ビリヤードの才能」というわけのわからない壁をいつも感じさせられた。
たとえば、
ある時、ブレイクが終わると啓二は言った。
「兄ちゃん、このままでマスワリするで。」
何だろうと思っていたら、かれはサイドポケットの前に立ち、そのままの状態で一歩も動かずにマスワリした。
手球はまるで名前をよばれた犬のようにかれの前に戻ってきた。
マスワリの最速記録に挑む、というので時間を計ったこともある。
51秒だった。
啓二はケタケタ笑いながら台の周囲を走りまわった。
5点制の四つ玉で点を取ったことがあるが、途中で面倒になったわたしは「セリーで台1周600点」ということにした。
それでも延々つづくので、睡魔に耐えかねたわたしは1万点あたりでついにリタイア。聞けば3万点撞いたことがあるそうだ。
田中忍プロによると、
「3万点というのは公式記録じゃないんですけどね。でも啓ちゃんだったらそれくらいは楽に撞いたでしょうね。」
後年わたしは囲碁のプロに、一日に何時間くらい勉強しますか、と聞いたことがある。
本当に集中して勉強すれば連続2時間が限度だということだった。
啓二の偉大な集中力とそれを継続する能力はどこで養われたのだろうか。
それはともかくとして、先に紹介したサーカスのような球。
サイドの前に立ったままでマスワリをだしたり、51秒だったり。
それはたしかに見せ物としては楽しかったが、一方でわたしは思った。
「大道芸人じゃあるまいし、そんなことができたからといって何になる。」
「おい啓二。お前、上の世界をめざす気はないのか?」
「上の世界ってなんや? プロになるということか?」
「そうではない。たとえば、ビッグタイトルをねらうのはどうだ?」
「ああ、ジャパンオープンなら出たで。決勝で負けてもうたわ。」
聞くと、球間違いをやらかして負けたそうだ。
それにしても、
ジャパンオープンの決勝で球間違いをするばかがどこにいる。
わたしはなさけなくなった。
(注)わたしは「ジャパンオープン」と記憶していたが、どうも間違えているようだ。というのも、1980年ころにジャパンオープンは存在しない。大阪の古い人たち数名に聞いた結果、啓二が全国レベルのオープン戦で準優勝したことは確実だが、その試合の名称についてはじつに曖昧である。
(つづく)
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