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ハスラー列伝 (BOSS編1)


呉の夜景



わたしがビリヤードを始めたのは高校3年ころだったと思う。
同じクラスに徳山というのがいて、この男にそそのかされて初めて行ったのが、広島県呉市の「ヒカリビリヤード」だった。
店には徳山のバイト先の先輩の山本龍彦がいて、ふたりで手取り足取り教えてくれた。
徳山は現在広島県福山市のビリヤード「BONZO」のオ−ナ−。
山本龍彦はわたしの師匠である。
当時の呉のビリヤードは、今思い出してみても相当レベルが高かった。
前原さん、古満さん、沖田さん、下高(しもたか)さんあたりは特に強く、わたしはローテーション240点ゲームで沖田さんの2連続マスワリを見たことがある。
下高さんは長身のうえに役者ばりの男前で、わたしは彼のグランドマッセを見て仰天し、そのままビリヤードにハマった。

 

そのころの呉は極端にガラが悪かった。
映画「仁義なき戦い」で知られる広島抗争事件が終結したのは昭和45年のことだったそうだ。そしてわたしが高校に入学したのが昭和47年。
ガラのいいはずがない。
しかもビリヤードは「不良の遊び」といわれた。
当時わたしと一緒にビリヤードに行った女性が、家に帰って親に話したところずいぶん叱られたそうだ。
「ビリヤードなんかやっている人とつきあってはいけません。」
いまでは信じられないことだが、わずか30年前の話だ。
数年前に知人がビリヤード店をオープンしたときも、お願いだからマジメになってくれ、と母親に泣きつかれたという。
やくざの大幹部が、ビリヤード店から出たところを待ち伏せされて射殺されたこともあったそうだ。

 

実際「ヒカリ」の常連たちの中にも、どう見てもマトモではない人が何人もいた。
昭和33年以降ビリヤードは「スポーツ」として認められたそうだが、その後も長くわたしたちはビリヤードがスポーツだとは知らなかった。それもそのはずで「ヒカリ」の常連などは「ちょいワルおやじ」どころか「激ワルおやじ」ばかりで、スポーツが似合いそうな人はひとりもいなかったからである。
だがこの人たちは口は悪かったが概して親切で、わたしたちは「学生、学生」と呼ばれてかわいがられた。
わたしは仲間たちと一緒に、雀荘へ行くよう
な感覚で球屋に通ったのだった。




大阪京橋

 

昭和55年ころわたしは大阪の京橋に住みついた。
京橋はパチンコとピンクサロンの街で、まあ良くいえば「庶民の街」とでもいうのだろうが、この小汚い街でわたしは「京阪ビリヤード」を見つけた。
「京阪ビリヤード」は京阪電車の高架下の店で、台数4〜5台だったと思う。
ひとりで練習していると店員が声をかけてきた。
「兄ちゃん。一緒にやれへんか。」(お客様、相撞きしませんか。が正しい)
見ると身長160センチくらいのチビが立っている。
わたしと同年代だと思うのだが(後に知ったが、わたしより8才年長)声も1オクターブ高く、おとなだか子供だかわからないような男だった。
ボーラードで対戦することになったが、このチビは生意気なことを言った。

 

「ハンデ100点出しとくわ。」

 

ご存じのように、ボーラードの最高点は300点である。初対面の相手にハンデ100点と言われてカチンとこない人はいないだろう。
実際わたしもアタマにきた。

「ナメやがって。」

ところが・・・

このチビはおそろしく強かった。
しかも笑い上戸なのか、ケタケタ笑いながらストライクを連発していく。
おどろいたことに10フレームの2投目まで全部ストライクだった。
そして最終回。
残り球はたったの2個。
これを入れればパーフェクトの場面で、何の変哲もない球をチビはわざとはずした。
「初対面でパーフェクトやったらカッコ良すぎるやんけ。」
そう言ってチビは大笑いした。
わたしは殴ってやろうかと思った。

 

数日後、ふたたび「京阪ビリヤード」に行ったとき、わたしは常連客に聞いた。
「あのチビは、ありゃ何者だ?」
「えっ? 知らないの?」 
常連客はふしぎそうな表情で教えてくれた。
「あれが中島啓二。天才と呼ばれています。」

                  

 

(つづく)

 
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